其の十三

宏文の記憶は更に遡る。

宏文が五歳の時、父親が死んだ。
所属している組織とヤクザの諍いで腹を刺された。
父親は在日朝鮮人の二世で、ちょんの間で働く母親の常連だった。
当時三業地と呼ばれた渋谷で遣り手をしていた祖母に、十七だった母親は無理矢理客を付けられた。そうして、母親も祖母と同じ道を辿っていった。

祖母は素面でも口が悪く、子供にとても聞かせられないような下衆な話も平気でした。
酒を飲むと一層、それは非道くなった。

「あんたはどうせ十七でアタシが引き入れなくても同じ道を辿ったよ。家政学校なんて通わんでよかったよ。もっと良い方法を勉強出来たんじゃからな。ハハハ」

祖母は酒を飲む度に母親をからかった。母親は何も言い返さなかったが、細い目の奥には、怨みのこもった眼差しを潜ませており、幼い宏文を狼狽させた。

母子家庭で貧しく、教育なぞに関心も抱く者が居ない家で育った宏文は、学校で当然のように苛められた。父親の影響か、言葉が遅かった宏文は言い返すことが出来ず、それが苛めを助長した。そして、誰もそれを注意したり、宏文を助けたりしなかった。
宏文は萎縮しなかったし、自分の味方が居ないことを気にも留めていなかった。ただただ自分の母親と同じ様に、目の奥に怒りを溜め込み、時を待った。

そして小学校三年のある日、その時が来た。その日、給食の豚汁に塩辛蜻蛉が入っていた。宏文を苛めていた一人である、光昭がそれをやった。
アルマイトのお椀に芋や人参や長葱と一緒に浮かぶ蜻蛉を見た宏文は、時を悟り、伏目がちに宏文を見て笑う光昭の元に駆け寄った。

「あんじゃ、こんなもん!お前が食え!!」
まだ少し熱い豚汁をその生徒の口の中に無理くり注ぎ込んだ。そして光昭の顔に巻き付けるように腕を絡め、口を開ける事を阻止した。細いが骨張っていて力強い腕、父親譲りの腕っぷしの強さが徐々に顕れていた。光昭は全力でもがいたが、宏文の力は強く、もがくほど光昭の顔に食い込んた。
「ぃぐぐ」
鼻から汁を出し、声にならない声を上げる光昭を見て、光昭は回した方の腕の掌で光昭の口を押さえ、反対の腕を振りかぶって、光昭の背中をバンバンと何度も叩いた。その拍子にゴクリと喉が動く音がし、光昭は口の中の汁を飲み込んだ。
腕を回したまま口をこじ開け、口の中に何も残ってない事を確認した宏文は、光昭の耳許に呟いた。
「あの蜻蛉、卵孕んどったな。お前が選んだもん知っとるよな。卵、お前の腹で孵るぞ。裏の沼みたいに蜻蛉にまみれて羽音がひしめきよるぞ。」

宏文は腕を離して席に戻った。宏文を助けなかった者たちは、光昭にも助けを差し伸べなかった。宏文を除き、誰も豚汁に手を付けなかった。

その日以降、誰も宏文を苛めなくなった。

翌週、光昭は転校した。

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