iOS-の画像

誰の声も届かない自分の内面と、他者の目に触れ続ける社会の恩恵

社会人になってから習慣というものが身についた試しがない。

新年を迎える度に、その気になって新しいことを始めてみたりするものの、日記をつけることも、ジムへ行くことも、毎朝コップ1杯の水を飲むといった習慣さえ続かなかった。

そもそも、定期的に何かをするということが苦手なのだ。

広大な毎日を、その日の気分で歩きたいという衝動が勝ってしまう。


そんな僕が、去年1年間、毎日続けられたことがある。

それが「1日にひとつ、人に見せることを前提としたテキストを書く」という習慣だ。

目的は、ネットで自分の言葉を発信するのに慣れること。

長文は無理だと思ったので、毎日ツイッターを更新することにした。

例によって長続きはしないだろうと思っていたが、気づけば1年間途切れることはなかった。


この習慣が続いた理由を考えたときに、思い当たったのは〝他者〟の存在だった。

日記をつけるのは読み返すことで過去の自分と向き合うため、定期的に運動をするのは健康のためというように、これまで続かなかった習慣はすべて〝未来の自分〟を見据えたものだった。

一方、「1日にひとつ、人に見せることを前提としたテキストを書く」という習慣の先には、未来の自分だけでなく〝他者〟も存在している。

この違いによって、今まで自分だけの取り組みでしかなかった習慣に、他者のリアクション(何の反応もないというリアクションも含め)という要素が付随した。

これが、習慣を続けられた最大の理由だったように思う。

思えば、僕はいつも他者の存在を意識して生きてきた。

「あいつには負けたくない」とか「あんな人に憧れるなぁ」といった分かりやすいものだけなく、「ミスったら恥ずかしいなー」」とか「仕事で結果を出したい」という気持ちだって、考えてみたら他者の存在を意識しているからこそ生じるものだ。

そうやって他者と比較したり、他者からの評価を頼りに、自分というものを明確にしようとしていたのだと思う。


確かに、それによって分かることもある。

他者との比較がモチベーションになったり、他者からの評価が自信になってきたのも事実だ。

しかし、そうして構築されていったのは、上辺だけの自分だったように思う。

「自分がどうありたいか」よりも、「他者からどう見られたいか」という意識のもとに作られた自分。

当然、中身は空っぽだった。


今思うと、その頃の僕は「自分がどうありたいか」と「他者からどう見られたいか」がイコールだったのかもしれない。

しかし、そのことに気がついたとき、「自分の人生は他者に見せるためにあるわけではない」ということを強く思った。

次第に僕は「自分がどうありたいか」を自分の内側に探し求めるようになった。


そうして築かれていった自分はどこまでも独りよがりで、吹けば飛ぶほど弱々しかった。

「誰になんと言われようと自分は自分だ」と信じるにはあまりに脆く、社会に晒されるたびに打ちのめされることになった。

だけど、その未熟な姿は、嫌というほど自分だった。

ツルツルで、ふにゃふにゃで、歪で、理想の自分とは程遠かったけど、ずっしりとした手応えがあった。

誰の声も届かないところで自分の内面を掘り起こし、社会の中に身を投じては打ちのめされる。

その繰り返しの中で、わずかに残った欠片こそが、信じたり貫くに値する自分なのではないだろうか。

少なくとも僕は、そうやって少しずつ自分の確固たる部分を積み重ねている。


破壊と再生を繰り返すうちに分かってきたことがある。

「自分は変わる」ということだ。

そう思うようになってから、「自分とはこういうものである」という正解を導き出そうとするのはやめた。

その代わり、変化する自分を分かろうとし続けることにした。


「1日にひとつ、人に見せることを前提としたテキストを書く」という習慣が続けられたのも、自分のアクションに対する他者のリアクションが、自らを知るきっかけになったからだと思う。

他者の反応によって、自分が何を求め、どんな時に嬉しいと感じ、どうありたいかを考える機会が圧倒的に増えた。

記事の感想を伝えてくれたり、SNSでリアクションしてくれた方々には、本当に感謝している。

お陰様で、去年よりも少し自分のことが分かるようになった。


自分という字は「自らを分かる」と書く。

その大変さを知れば知るほど果てしない道のりに思えるが、人生をかけて付き合うにはちょうどいいテーマなのかもしれない。

人生に退屈する暇はなさそうだ。

他者と自分との関係について、今のところ僕はこんなふうに考えています。

しかし、明日にはどうなっているかわかりません。

なにしろ「本当の自分なんてない」と語る某ドリンクメーカーの平山さんと、「他者と自分を比べなくなった」というサイボウズ式編集長の藤村さん、それに勝手に言語化の権現と仰いでいる鳥井さんという強者たちと、〝他者〟をテーマに話をするのです。

自分の考えがガラッと変わるかもしれないし、それにちょっと期待しているところもあります。


Waseisalonのメンバーでお送りするライブ配信『あっ、なんの話だっけ?』の第二回。

配信は明日1月17日(木)の19:30からです。

こちらのフェイスブックページでご覧いただけます。

〝他者〟というテーマになった経緯は、藤村さんがまとめてくれたので、下記をご覧ください。

第一回のダイジェスト映像はこちらです。

明日の動画もアーカイブも残す予定ですが、配信中にドシドシご意見をいただけると嬉しいです!

それを受けて話が深まったり、脱線したりするのを、4人とも大いに楽しみにしているところがありますので。

どうぞよろしくお願いします!


イラスト:おおがきなこ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?