平成で最後にするもの

あと少しで平成が終わり、新しい令和という時代が始まる。

これからは歴史の教科書の年表には平成が過去の時代として記され、子どもたちに語り継がれていくのか。
時代が変わる歴史的瞬間を味わうことができると思うとワクワクしてくる。

日本中の人が平成最後の今日という日を思い思いに過ごしているのかな。
平成の思い出をふりかえるだとか、令和の抱負を語り合うだとか、大晦日のカウントダウンみたいにワイワイしているのかな。していてほしいな。
そんなことを考えるとなんだかやさしい気持ちになる。

私は今パソコンに向かっている。
平成最後の日に何か書き残すために、必死にキーボードを打っている。


私にとって平成ってどんなふうだっただろう?
良い時代だった?どうだった?

ずっと考えていたけれど正直わからなかった。
だって平成は今の私のすべてだから。

平成の時代に生まれ、平成の時代しか生きたことがない今の私は、人生すべてが平成で作り上げられている。
平成の時代しか知らないから平成がどんなふうだったか?なんて答えられない。

そんなときTwitterでこんな記事を読んだ。

平成の30年間は、さまざまな分野で組み上げられてきた理論体系を踏まえた上で、そこからはみ出し、自己表現しようとする人間を排除することが「正義」とされてきた時代だったように感じる。

他人が作った「モノサシ」に自分を合わせ、その意味を考えることなく自分を枠にはめることで、立派な会社に就職でき、出世し、家族を養い、幸せな人生を送れる――。そんな人をせっせと増やしてきたのが平成という時代だったのではないだろうか。

この記事を読んで平成という時代を客観的に見ることができたような気がした。

今まで平成の時代しか生きてこなかったからこそ知らなかった、気づかなかった平成の時代のこと。
気づいたら、いや生まれたときからこの「モノサシ」が存在していたように思う。
学校も職場も家庭も社会も。
平成は、理由は特にないけれど良しとされる型やレールがあって、それにあてはまれる人が、レールに乗れる人が生きやすい時代だったのかもしれない。
なにが平成で生まれ、始まったのか、平成しか生きていない私にはよくわからないけれど、生まれたときからこの他人が作った「モノサシ」があったのは平成の時代だと思う。
それを何の疑問も持たずに、普通のこととして育ち、生きてきたのが私たちだったのかもしれない。
この記事を読んでそう思った。

もっと普通に生きられたら。
学生時代の私はよく思っていた。
もっと普通に学校へ通って、普通に勉強や部活をして、普通に学校帰りにゲーセンで遊んで、普通に恋をして、普通に単位を取ったり、普通に良いところに就職できたりすればいいのに。
みんなと一緒の普通をずっとずっと追い求めていた。
普通が一番安全で生きやすいから。
そんな感覚が刷り込まれていったのも平成の時代だったのかもしれない。


平成がどんな時代だったか。
それは先述のとおり、やっぱり私にはよくわからない。
けれど、平成があったから私があるはずだ。
平成の良いところも良くないところも、まるっと経験したから今の私があるのだから。
そう考えると平成は良い時代だったなと思いたい。

もっと普通に生きられたら。
ふとしたとき未だに思ってしまうことだ。
でもそんな考え方も平成で最後にしたい。
こんなことしたら誰かに嫌われるかな、がっかりされちゃうかな、浮いちゃうかな。
普通という名の「モノサシ」に引き込まれるこんな言葉たちも平成で最後にしよう。
だれかに良いとされることを基準に生きるのはとてももったいないことだ。
「モノサシ」は私がつくるもの。
私がいいなと思うことに素直に生きることを令和での目標にしよう。

いよいよ令和がはじまる。
新しい時代の幕開けだ。
ワクワクする素敵な時代になりますように。

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