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桜御殿五十三駅(さくらごてんごじゅうさんつぎ) [現行上演のない浄瑠璃を読む #5]

初演=明和8年[1771]12月 大坂竹本座
作者=近松半二、栄善平、寺田兵蔵、松田ばく、三好松洛

近松半二作品のうち『妹背山婦女庭訓』の次に発表されたもので、足利義政公の時代を舞台にした華やかな時代物。

将軍兄弟の放埓、御殿にはびこる佞臣、金閣寺へ招かれるはずだった宗純法親王(一休禅師)の失踪、明智によって管領にまで取り立てられた鷹匠・太郎治の大出世、足利家に滅ぼされた赤松満祐の残党など、多くの要素が絡み合いながら物語が展開してゆく。

本作では、物語の本当の目的が、かなりの後半になるまでわからない構造にされている。
例えば、『妹背山婦女庭訓』なら、蘇我入鹿の野望を挫くというのが物語の目的・大義として初段で明確になる。しかし本作では、物語冒頭でわかりやすい黒々とした「悪」は提示されるものの、その傍らにあったわずかなシミがだんだんと大きくなり、気がついたときにはそのシミが当初から見えていた「悪」を飲み込んで見えなくするほどの巨大な暗黒になっていた、という構造を取る。


面白いのが、この物語最大の「大悪人」とは誰なのかが、相当最後のほうまで伏せられている構造。

主人公・太郎治は鷹匠として将軍義政に仕えていたが、身分は非常に低いものであった。ところがあるとき、偶然にも義政から才智を見込まれて侍の身分を与えられる。権威的な管領たちには歯に衣着せず対応し、重税に苦しむパンピーを憐れんで知行を与えるその振る舞いは義政に気に入られ、あれよあれよという間に最高位の管領にまで取り立てられる。

太郎治は管領・岩見太郎左衛門となり、幕府の実務を取り仕切るようになる。太郎左衛門の振る舞いは、いかにも近松半二的なヒーロー像。理知的だが非常に冷酷で、世界を支配する倫理(すなわち不条理を孕んだ非人道的な封建社会のルール)のために、どんな残酷な判断をも下すことができる人物として描かれる。たとえそれが自らの家族に悲劇を招くとしても、彼の意思が揺らぐことはない。

そうして多大な犠牲が払われた上で、幕府に巣食う佞臣・山名宗全は、太郎左衛門によって成敗される。
ここで物語が終わるかと思いきや、宗純法親王からの密書が義政の御台所へ届くことによって物語は反転する。


ネタバレすると、クライマックスには、佞臣たちから正しき政道を守るために立ち回っているかに見えた主人公・太郎左衛門こそが実は真の謀叛人であり、将軍家に弓引く赤松満祐の子孫だったという展開が待っている。

太郎左衛門は何故か自分の女房・お蘭を突然離縁し、将軍の側に妾として置いていたが、これには本心があった。太郎左衛門の野望とは、自分の子を身ごもっている女房・お蘭を義政の妾として送り込んだ上で将軍を殺害。生まれくる自分の子を「若君」として将軍位につけることで、足利家に滅ぼされた父・赤松満祐の復讐を果たすことだった。太郎左衛門の復讐には、単に自分が天下を獲りたいために帝や将軍を狙う悪役とは違う不気味さ、おそろしさがある。


さらに、本作の特徴的かつ重要な展開として、将軍殺害シーンがある。

将軍の御台所は、宗純法親王からの密書を受け取る。そこには衝撃的な指示が書かれていた。宗純法親王の命令は、暗愚な将軍(=夫)を殺害せよというものだった。
彼女は涙ながら、深夜、守り刀を手に寝所へ忍び込んで将軍を突き殺す。そこへお蘭が割って入り、二人が血みどろの争いになる中、お蘭は夫・岩見太郎左衛門が謀叛人であったことを告白する。やがて岩見太郎左衛門が現れ、将軍の首を切り落とすが……。

御台所による将軍の殺害や子孫の「入れ替え」は封建社会のルールを致命的に破壊し、大きく揺るがせるマジモンの危険思想である。

現代に制作される時代劇でこのような設定が出てくるのは、まだわかる。東映のピンク時代劇でもそういう設定のものをいくつか見たことがある。が、本当に封建社会だった時代にここまでの反逆姿勢をかましてくるのは、衝撃的である。
将軍が殺害されたり、あるいは将軍の胤でない若君が将軍位につくラストを迎える東映時代劇とは異なり、太郎左衛門の野望はそれを見抜いた「真の善臣」の登場で未遂に終わる。妻・蘭の方の裏切りによって太郎左衛門の悪事は露見、蘭の方はお腹の子もろともに死ぬ。太郎左衛門が斬った「将軍の首」は身代わりの偽物だった。お蘭によって義政は金閣寺に逃がされ、今までの言動を反省して一休禅師の弟子となり、身を銀閣寺に置くと告げる。将軍職は弟・左馬之助に譲られ、天下泰平となって物語は終わる。

しかし、いくら「将軍は実は生きていました、悪人は滅びました」オチであっても、将軍は所詮「御政道」=体制が存続するための傀儡でしかなく、いくらでも入れ替え可能な存在だと描かれている点には変わりはない。
また、追い詰められた太郎左衛門は切腹して果てる設定になっており、最後まで信念と野望に燃える毅然とした人物として描かれる。決して小汚い悪人ではない、ヒロイックな謀反人だ。

また、本作には主要登場人物のひとりとして「犬」呼ばわりされるキャラクターがいる。この人物の粗野でわがままな振る舞いは、徳川綱吉を暗喩しているらしい。

本作は、最初に読んでいたとき、いくつか展開として「?」と思ってしまう点があった。
たとえば、義政公が本当に暗愚だった点。義政が家来の妻・お蘭に声をかけたのは、周囲から暗愚と思われている弟・左馬之助より暗愚に振舞うことで、彼を正気に立ち返らせて周囲を説得し、将軍位を譲るためだと思っていた。これが、浄瑠璃ではよくある展開。が、結局そうでなく本当に暗愚なのは、浄瑠璃的な「実は名君だった」的なドンデン返しがなく、若干カタルシスに欠けるよなと思っていた。
ただ、本作が体制批判の物語で、いわゆる浄瑠璃的な大団円(=主君に権力が戻って国家安泰)を迎える必要はないと捉えると、この疑問は発生しない。むしろ、納得の展開だと感じる。


さすがにこの内容はヤバかったらしく、規制の対象になったようだ。

特に御台所による将軍殺害シーンは、たとえ「実は入れ替わっていた」という設定であっても表現不可とされたらしい。本作の丸本(台本の書籍出版)は上記のような原型ママのものが出たあと、これらの展開を「無難」に改訂して、自主規制を施した版が存在している(舞台上演がどうなっていたかは不明)。

本作は、柳沢騒動を扱った実録体小説『増補日光邯鄲枕』を受けて作られているらしく、この将軍殺害まわりのストーリーの骨子は同作から来ているらしい(綱吉死没当時から巷説としてあった、御台所による将軍綱吉殺害説が描かれている)。なお、『増補日光邯鄲枕』は禁書となっている。
『増補日光邯鄲枕』を受けた演劇作品には歌舞伎『けいせい邯鄲枕』が先行して存在するが、ここまで豪速球に体制を攻撃する内容ではなく、封建社会の根幹を揺るがす内容をクライマックスに持ってくるというのは半二オリジナルのようだ。

放蕩な権力者、若者たちの「不義」の恋、身代わりの子供、冷徹な主人公といった浄瑠璃にはよくあるエピソードの結末に、「世界のルール」に挑戦する展開が描かれるのというのは衝撃的である。いくら室町時代とエクスキューズしていても間違いなく規制対象になる内容なのに、半二がなぜこれを描こうと思ったのか、気になるところだ。


もうひとりの主人公ともいうべき、宗純法親王のキャラクターも面白かった。

彼はつまり一休禅師で、言動もそれっぽいキャラになっている。「足利家の不義」に怒り比叡山を出て失踪。現在はボロボロの草庵で静かに暮らしており、気取らず親しみやすい雰囲気から、近所の衆に慕われている。しかし物語が展開していくうち、世俗とは違う価値観で飄々と生きているかに見える彼こそが本作でもっとも明智に長け、冷徹な決断力を持った政治家であった、という展開をみせる。

超俗的な彼と渡り合い、“弟子入り”する元盗賊として、「蜷川新右衛門」という人物が登場する。しんえもんさんって、実在(?)したんだ……と思った。たしかにケツアゴそうな感じだった。文楽でいうと大団七的な。


あとはやっぱり肛門に蛇が入っちゃう悪人の話が良すぎた。

輪郭のデカい大悪人(だと自分では思っている)丹波兵衛は、管領・山名宗全の嫡子であったが勘当され、いまは朱雀野を徘徊する乞食の身である。彼は来たるべき日のために、紙くずやみかんの皮集めなどをして貯金し、大望成就の機会を伺っている。丹波兵衛は蛇使い・弥五郎太を幕下につけようとするが、弥五郎太は味方になると見せかけて、罠の蛇を放って去る。その蛇がニョロロ〜ンと丹波兵衛の内腿を這い上る!! 驚く丹波兵衛!!! 「ヤア、ちゃん九郎(手下A)、捻助(手下B)。弥五郎太が魔術の蛟(みずち)。我が肛門へさし入ったり」!!!!

この時代の、オチとツッコミのない滑りっぱなしのチャリ場は、良い。
しかし、この段はアホな内容と見せかけて、巨大な謀反人劇である本作のクライマックスを示唆しているのだ。


本作、かなり面白いので、どこかでマンガ化して欲しい。
愛すべきキャラクターが多数登場し、それぞれの思いを抱いて果敢に前へ進んでいく。上記には書ききれなかったが、太郎左衛門の妻・お蘭の実家一家の物語もドラマティックで面白い。直接描かれておらず読者の想像に任されている部分も多いので、自由度もあり、広がりを感じる。足りないなあ、もっと詰まっていればいいのに、でもそこまで説明しはじめると、舞台として1日で上演しきれない大長編になっちゃうか、と思う部分もフォローできそうだと思う。


読む方法
翻刻なし(本作の翻刻は、いずれブログに掲載しようと思っています)
丸本は東大黒木文庫、早大演劇博物館などのデータベースで画像公開中

画像出典=『桜御殿五十三駅』東京大学教養学部国文・漢文学部会所蔵

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