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雑記 『君たちはどう生きるか』を観た

ストーリー上のネタバレや演出の詳細への言及あり。



とにかく、一切、他人の顔色を伺っていないのがすごかった。
本当、人間は、自分のやりたいことをやるべきだなと思った。他人の顔色を伺ったり、わかってもらいたいとウネウネしている時間があったら、自分がやりたいことをやるための刃を研ぎ澄ましたほうがいいと思った。
とはいえ、人間、やりたいことがなかったり、あってもできない人はたくさんある。やりたいことをやりきれる人は本当に幸福だと思った。

この映画が日本を代表する映像作家のみんなが観に行きたがる最新作で、日本中どこのシネコンでもかかっており、夏休み最初の連休とはいえ、大型シネコンでは複数スクリーン、1日10回以上上映でやっている映画というのが、すごい。無限の可能性を感じた。


鳥のクチバシの下から鋭い目が覗いているキービジを見ていた段階では、社会的不適合者の少年が自己を保つために鳥の着ぐるみを着て生活するようになるが、より一層社会から乖離していく等の「社会と自己」をテーマにした現代劇だと思っていた。
なので、トップシーンが空襲だったのにはど肝を抜かれた。と同時に、私は『風立ちぬ』の狂気が最高に好きだったので、やった!と思った。「現実の戦争」は宮﨑駿の憧憬、憎悪、夢想、現実を引っ掻き回す、生涯最大のテーマであるはずだ。これは、宮﨑駿の「俺は社会に一切迎合しない」的、ハヤオ・完全主観・狂気・ワールドがぶちかまされるのかと期待した。
そのあとも、「ロマンポルノは10分に1回濡れ場がある」の思春期の不安版とでもいうような、5分に1回程度、異様に不安感を掻き立てるシーンが、特になにの説明も言い訳もツッコミもなく唐突に差し込まれるのが、良かった。初対面から妊娠している継母とか、屋敷の炊事場で介護されている寝たきりの老人とか。いやわかりますよ。当時は「そう」だったっていうこと。でも、そこまでフルスイングでぶち込んでこなくてもいいだろという描写、ハヤオテイスト。
しかし、私自身も、子供の頃は、世界のすべてがおぞましかったような気もする。これはいい映画だ、と思った。祖父母宅の仏壇の下の引き出しの中身、応接間の本棚に差し込まれたアルバムに貼られた写真、そういうものを思い出すゾワゾワだった。

だが、<地獄>へ落ちたあたりから、ああーーーーーーーそっち行ったかーーーーーーーと内心残念に思った。
<地獄>のほうが、ある意味、安心できる世界だよね。あくまでファンタジー的な世界観処理なので、どんな不気味なおさかなが泳いでいたり、怪生物が大量に浮遊していたり、ペリカンが喋っていても、違和感がない。親身になって積極的に助けてくれる大人や<友達>もいる。彼女ら彼らが、なにもかもを導いて、教えてくれる。次々に不条理を押し付けてきて、主人公の本当の気持ちに寄り添ってくれる人のいない現実とは全然違う。皮肉でやってんのかと思うほどの、安心できる世界。
ただ、うまいところもあって、いわゆるファンタジー的世界観ってなんとなくなんでも取り返しがつきそうなところがあると思うんだけど、<地獄>には、美しい悪夢めいた、冷たい「死」の空気が流れているのが、良かった。

<地獄>の風景自体は、もう、完全に宮﨑駿の妄想世界で、風景自体はそれはそれで良かった。ただ、既視感があった。既視感といっても他人の真似ではなく、自己模倣で、それはそれで、高齢の天才作家の作品としては、出現して当たり前のことではあるんだけど。そこは、これまで以上のものにはなりえないのかと、残念に思った。『風立ちぬ』は飛行機の音が人の声になっているとか、「あんだけ飛行機好きでこれまで死ぬほど描きまくってきたのに、さらなる次のステージへ行っちゃったのッ!????!!!!!!!!!」と、本当に衝撃を受けたのだが……。

テーマ自体は普遍的で、非常に素直。説教でなく、説明もしない落とし方は上手い。こういったみずみずしさはジブリ作品、宮﨑駿作品らしくて、個人的に好き。
宮﨑駿が老境に至ってもわかりやすい説教に走らなかったのは本当にすごい。それに、オレが言ってることは正しいんだ、だからオレはすごいとかも、一切言わない。社会に対する問題提起もしない。偏屈すぎてそういうものをすべて拒絶しているのだと思うが、そのために「オレ」だけがごん太に屹立した、真の巨匠だと思う。


今回、印象的だったのは、絵的な演出の主観性。絵画的な表現の多用、ものの大/小、描写の細密/粗雑の伸縮。これはもう、日本最高クラスのトップクリエイターだからこそやれたことだと思う。普通はプロデューサーやスタッフを説得できないと思う。そこは日本最高レベルの興行力のある巨匠であり、そしてスタジオジブリの面目躍如だと思った。
一番よかったのは、冒頭、爆撃の炎に巻かれ避難する人の群れのシーン。青木繁の絵画のようだった。ゆらめくようなCG加工が非常に有効だと感じた。
<地獄>の<大叔父様>の頭上に浮かぶ巨岩のきらめきもCGで加工していると思うが、大スクリーンで見るからこそわかる程度の細密なまたたきで、美しい。大スクリーン上映をいかした演出でほかによかったのは、<お屋敷>の沼の水面にアメンボ?ガスの気泡?のようなつぶつぶが時々浮き上がること。汚い沼って、たしかに、そういう正体不明のチラチラが浮いてくるよね。
<ナツコさん>は、シーンによって見え方がバラバラにされている。普通は「作画崩壊」だろうが、主人公の主観を表現する演出優先でやりきるのは、すごい。
また、<青鷺>の羽をモゴモゴする動きや池を歩く姿の細密さに比較した、<インコ>の安直な顔、「判で押した」感も良かった。ただ、後半だけにまとめて出てきてしまうので、単なる雑に見えるのは惜しい感じがした。普通の細密な絵の中に突然あれが出て来たら意味することはさらにわかりやすくなったと思うが、そういう安直な「わかりやすさ」を拒絶するのも、ハヤオテイストなのか。戦時中、末期のほうがだんだん大味にめちゃくちゃになっていったという比喩なのかもしれない。

細かい部分ではもう少し詰めて欲しいところもあった。
現実世界の<お屋敷>をはじめとしたインテリア類、現代の視点で考えた「ちょっとレトロな洋風建築風」だったけど、なんだか手抜きに感じた。たとえば緑のシェードのランプとか、たしかにああいうレトロランプがあるのはわかる。けど、Pinterestでバーッと集めた資料写真を見て書きました感強すぎじゃね? インテリアやプロダクトのデザインが全体的に似すぎていると思う。「昔」のプロダクトって、大量生産の技術が未発達だったがゆえに、工業製品でも個性的なものが多くて、それが魅力なのに、勿体無いなあと思った。アンティーク描写が得意な監督だと思っていたけど、それはあくまで「洋物」だけで、近現代日本の古道具とかあんまり興味ないのかな? トトロも、いま冷静に見返したら、荒いと思っちゃうのかな??

でも、他人との共同制作において、自分の中にだけあるイメージ、つまり他人は一切持ち得ず共通認識がないものを作り出すのって、本当に大変だよなあと思った。資料になる画像を集めて、こういうイメージ、ってやるのが手っ取り早いんだけど、まあ、それだと、依頼相手がよほどのセンスの持ち主じゃないと、コピペになるよね。なんなら、言い方は悪いけど、コピペにしてもらったほうがまだマシなスタッフしかいない場合もある。(宮﨑駿は自分で描いたイメージボードを用意しているだろうし、スタッフにしても、ジブリなりジブリの発注先はそうではないと思うが)
そこだけ、なんだか、「現世」の質感があって、なんともいえない気持ちになった。


あと、ハヤオ、鳥のウンコ好きなんだなと思った。確かに鳥の気配がするところにウンコありとは思うが、ちょっとパタパタした程度の場所にもしつこく落ちまくったり、登場人物がウンコまみれになっているのがすごかった。登場人物のだれひとりとしてウンコを気にしていないのも良かった。シュヴァンクマイエルが必要もなくイチモツ強調してくるのに近いセンスか。


本編とは関係ないが、隣席のひとりで来ていた若い女性が最初から終わりまで絶え間なくポップコーンを食べていた。涼もうと思って入場改札始まってすぐ場内入ったんだけど、その時点ですでに着席していて食べ始めていた。どんな緊迫したシーンでも本当にずっとぼりぼり食べていて、千と千尋のお父さんとお母さんみたいで、怖くなった。


開映前に、紀伊国屋書店で『説経節』購入。宮﨑駿、次回作では、説経節のように死と狂気の足音が常に真後ろに聞こえるような世界を描いて欲しい。
説経節全般にみられる運命の悲劇性と諦念は、高畑勲のほうが向いていたかもしれないが……。

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