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現行上演がない浄瑠璃を読む 並木宗輔・豊竹座前期篇 [現行上演のない浄瑠璃を読む #12]

並木宗輔作品のうち、豊竹座に所属していた時代(歌舞伎転向まで)の作品をすべて読み終わった。
『北条時頼記』から『道成寺現在蛇鱗』までの全32作。

01『北条時頼記』
02『清和源氏十五段』
03『摂津国長柄人柱』
04『尊氏将軍二代鑑』
05『南都十三鐘』
06『後三年奥州軍記』
07『藤原秀郷俵系図』
08『蒲冠者藤戸合戦』
09『本朝檀特山』
10『楠正成軍法実録』
11『源家七代集』
12『和泉国浮名溜池』
13『赤沢山伊東伝記』
14『待賢門夜軍』
15『忠臣金短冊』
16『莠伶人吾妻雛形』
17『曾我昔見台』
18『那須与市西海硯』
19『南蛮鉄後藤目貫』
20『万屋助六二代ガミコ(ガミコ=衣へんに氏・巾)』
21『苅萱桑門筑紫イエズト(イエズト=車へんに榮)』
22『和田合戦女舞鶴』
23『安倍宗任松浦簦』
24『釜淵双級巴』
25『丹生山田青海剣』
26『茜染野中の隠井』
27『奥州秀衡有鬙婿』
28『狭夜衣鴛鴦剣翅』
29『鶊山姫捨松』
30『石橋山鎧襲』
31『百合稚高麗軍記』
32『道成寺現在蛇鱗』


自分の場合、普通に文楽を観劇しているだけだと、「この演目の作者は誰なのか」はともかく、どの時期の作品で、前後にどのような作品が上演されていたかということまではそこまで意識せず見ている。しかし、今回は並木宗輔作品を発表順に読んでいったため、作風の変遷などがわかって頭の中が整理された。

ざっくりした印象論だけど、ここまで読んで思ったことを備忘録としてまとめておきたいと思う。



32作品読んで感じたのは、並木宗輔は、「人間を人形として描いている」ということ。
もっとざっくりした言い方だと、諦念が強いと言うべきか。
この人、人間を信じていないんだなーと思う。

近松門左衛門には、人間を信じている無邪気さ、人間に対する甘さがある気がしている。「人間だもの」っていうか。そんなに読んでないので言い切れないけど。
近松半二はどんなに残酷な展開であっても、切ったら真っ赤な血が出るような人間たちのドラマという感じがする。むしろ、人間だからこそ、解決不可能な悲惨な境遇に陥ってしまう、それでも必死に生きていこうとする人々を描いている、という印象。
両者とも、「諦念」はない。(と私は思う)

でも、並木宗輔は、人間は、人形遣いに遣われている人形程度の自由意志しか持っておらず、また、持つことができない存在だと描いている気がする。
人間は社会という巨大なシステムの中の単なるパーツであり、いくらでも取り替え可能で、壊れても仕方ない。誰もがシステムに飲み込まれていく。それに抗うこととはできない。

ただ、時々、「人形のくせに」、それに違和感や抵抗感を抱くヤツがいて、そこに話の核心がくる。



並木宗輔は女性描写が秀逸、といった批評をしばしば目にする。
が、それは、「近松は女性描写が秀逸」と同じことだと受け取っている。受け取る時代・受け取る人の、女性観の問題。そういう批評を「むかし」書いていた人のことは批判しないが、今それ言ったら相当まずいと思う。現代の価値観、というと大袈裟なので私の価値観で書くと、こんなにも全員同じ性格に書いていることや、あまりに自己主張がなさすぎるのは、どう考えても……。

自分が古典芸能を見ていなかったころ、思い込んでいたことのひとつに、「女性差別的な内容が多そう」というものがあった。それでいうと、実際観るようになってわかったのは、能・狂言は確かにその傾向が強くあり、また、歌舞伎では演目内容はともかく芸能の形態や批評として「女方は一歩下がって……」という言説が存在するようだが、文楽はそれが希薄ということ。
いまの文楽の場合、女方の人形遣いの力が強いということも大きいと思うが、現行曲で女性描写にそこまで不快感を感じたとこはない(近松オメエは別だ!)。

でも、並木宗輔の現行上演なしの作品だと、かなりギョッとするような、いきすぎた女性不信、ミソジニーとしか思えない展開もかなり散見される。たとえば、女性は継子を殺しても平気なおぞましい存在だという完全断定でストーリーが進むとか(『摂津国長柄人柱』)。かなり突出した印象を受け、「なぜそこまで?」と思う。仏教的・儒教的観念から来ているのか、それとも並木宗輔個人の考えなのか。同時代の浄瑠璃作者や歌舞伎、その他娯楽出版物等の知識がないので、わからない……。
(豊竹座を辞める直前の作になると、女性登場人物にも個性が出てくる。結構唐突なので、「性格が明るい弟子でも取ったんか?」とか「一緒に書いた人が元気だったのかな?」と思う)

だが、女性登場人物は、「自分が人形であることに違和感や抵抗を持っているヤツ」ではある。自分の立場に対する社会の要請に敏感に反応し、「そんなことは異様だ」「しかしそうしなければならない」「なぜ」と思い悩む人物が多い。それがドラマになっている。



男性描写はどうかというと、個性的で魅力的かというとそういうことでもない。
たとえば『ひらかな盛衰記』の樋口とか、『義経千本桜』の知盛のような、強い信念と意思を持った人物は出てこない。
ドラマティックでヒロイックな人物はほぼいなくて、あくまで社会のパーツとして動く、受け身の人物が多い。そもそも、究極的状況に陥れられようが、悩まない。なぜなら、やることは決まっているから。男性登場人物は自分が社会のパーツであることに自覚的で、人形であることに異議を申し立てない。男性登場人物はある意味、女性よりも個性がない。

そして、子供は本当に悲惨な描かれ方、モノでしかないことが多い。
まさに人形が持っている人形であり、着せ替え人形をセット買いしたときについてくるオマケパーツ状態。

ただし、32作品の中にひとつだけ、大人の男性が命をかけて子供を助ける話がある(『安倍宗任松浦簦』)。かなり異色だが、その大人というのが、吃音の障害を持っているために日頃軽んじられている人物というのが肝ではないかと思う。



男だろうが、女だろうが、人間は所詮社会の「人形」でしかない。
そこまでして成立させなくてはならない「社会」、あるいは、そのように人形たちを導いていく「運命」とは何なのか。
並木宗輔は、人形浄瑠璃の必然性を通して、その悲哀を書いていたのではないかと感じた。

並木宗輔作品の特徴として、人の入れ替わりをはじめとする推理小説的なトリックが挙げられることが多いが、これも、人間を「人形」として描いていることのひとつのあらわれではないかと感じた。

そう考えると、この後に書かれる『仮名手本忠臣蔵』の本蔵、『一谷嫰軍記』の熊谷直実は、すごく意味のあるキャラクターであるように感じる。彼らは自分が人形であることを捨てたために、本蔵は娘のために死に、熊谷は相模を連れて出家して、あの世界の外に出ていくのかな。そして、由良之助や義経は人形でありつづけるのだろう。



並木宗輔の特徴といわれる、ロジカルさについて。
相当初期からこの傾向にあるのだと知った。伏線等の整理がしっかりしていて、ストーリーの整合性が高く、また、無駄がなくスリムな作風であると思う。もちろん、歌舞伎的な設定も流入はしてきているのだろうが、後世ほど露骨ではなく、「盛り」は少ない。

ただ、後ろにいくにつれ、ロジカルなままに、どんどん話が狂ってくる。
たとえば『茜染野中の隠井』や『鶊山姫捨松』は、ロジックはしっかりしてるんだけど、ロジックを極めるために登場人物が異様な行動に出る、異形性の極まった作風。彼らは「人形」だからロジックに抗うことができず、運命の歯車の狭間に挟まれてニンゲンとしての形がどんどん歪んでいく。爛熟しきって腐れ落ちた果実にわく虫を見ているような風合いがある。こういうのが生涯の最終作だったとしたらなんとなくわかるんだけど、作者人生半分くらいの頃に書かれたというのは、少し驚き。

『鶊山姫捨松』は、現行上演のある中将姫雪責のくだりより後が完全に狂っている。
あのあと色々あって、中将姫の首を討たねばならなくなり、人々が身替りだ何だと大騒ぎしまくる。
身替りものの王道展開で、古浄瑠璃等では観音像が死すべき人の身替りになってくれるというテンプレートがある。「寺子屋」で、松王丸と春藤玄蕃が偽首を持って一度帰ったあと、戸浪が松王丸が騙されたことに驚き、「ただし首が黄金仏ではなかったか」と言うアレ。近松の『出世景清』でも、清水寺への信仰心篤い景清が処刑されようとしたとき、観音像が身代わりになって首を討たれるくだりがある。
中将姫は景清と同じく信仰心が篤いので……と思われるが、観音像が入った厨子を開けたら、そこには観音像ではなく、なんの罪もない別の娘の首が入っていたというやばすぎる展開。その首にされた娘の正体にもかなり複雑な因縁があるのだが(ここでは説明しきれないんですが、岩根御前が豊成に嫁ぐ前にもうけていて生き別れた娘で、岩根御前は直前に偽首にされそうなことに気づき、嫌がらせのふりをして保護していたはずなのにという設定)、それも病んでるとしか思えない設定。そして、その頃には、中将姫の首が必要な意味がもうよくわからなくなっている。悪意としか思えない。

『茜染野中の隠井』は、以前に記事を書いたけど、本当に異様ですごすぎるので、ぜひとも文楽で復活上演して欲しい。「人間は追い込まれたらなんでもやる」という点で、現代でも十分訴求力がある内容。
一番の核心になる段は素浄瑠璃が演奏可能のはずなので、人形をつけるのも可能なのではと思う。(『迎駕籠野中井戸』聚楽町の段。文楽座の中で継承している人がいるかはわからん)



全32作品の中、私が面白いと思ったのは、『北条時頼記』、『茜染野中の隠井』、『道成寺現在蛇鱗』、『丹生山田青海剣』、『安倍宗任松浦簦』、『尊氏将軍二代鑑』など。

このあとの並木宗輔作品は、歌舞伎作者時代の8作(台帳現存は2作)、竹本座時代の12作、そして再び豊竹座に戻って没するまでに書いた2作。たぶん。現代において読めるものは残り合計16作。
現行曲も多いので、うち半分ほどはすでに読んだことがあるが、順番に読み直すことで得られるものも多いと思う。楽しみ。

並木宗輔の歌舞伎作者時代の作品、『大井川三組盃』『大門口鎧襲』以外に現存はあるでしょうか? ご存知の方いらっしゃったら、ご教示ください。

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