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後三年奥州軍記(ごさんねんおうしゅうぐんき) [現行上演のない浄瑠璃を読む #7]

初演=享保14年[1729]正月 大坂豊竹座
作者=並木宗輔、安田蛙文

後三年の役に取材した内容。八幡太郎義家・加茂次郎家綱兄弟と、奥州の清原武衡・家衡兄弟の戦いを描く。
戦国時代物にあるような、華やかな武将の活躍や知略に秀でた軍師が奇抜な策で窮地を切り抜けるとかの話は一切なし。ひたすら人々が悩み続ける、ものすごく地味で後味悪い系の話。『南都十三鐘』より不条理感がさらに増幅している。


敵方の家臣に姻戚関係があるため「自分は敵方に内通していると疑われているのでは」と後ろめたさを感じる家臣一族(将軍家と奥州清原家の家臣それぞれにいるので、×2)の苦悩がストーリーのメインで、登場人物全員が延々と人の目を気にし続け、解決しようもない後ろめたさに囚われ、反芻し続ける。人の目がどうたらと家族ぐるみで悩み続ける病んだ話がまじ延々と続くので、不気味に感じる。

そういった悩みを持つ人物がある程度絞り込まれていれば面白いかもしれないが、本作の場合、同じことで悩んでいる人たちが2家族ある。そのため全体的になんだか漫然としており、同じことの繰り返し感が強い。繊細には作ってあるんだけど、登場人物の個性が弱いのもあって、なんだか無駄に人がいっぱいいる印象。

敵方となる武衡・家衡も、後世の浄瑠璃ならギラギラした口開き文七の悪役として描かれるのかもしれないが、本作ではそこまで至らず、出番も少ない。義家・家綱のほうが高貴であるから、ありとあらゆることが上手(うわて)であることが早々に描かれるため、何の脅威にも感じないのはちょっと惜しい。武衡は最後に娘が失踪して混乱する場面があるので、ちょっと面白いキャラではあるが。


最後の段では、二人の娘が家綱を争うエピソードが展開される。

しかし、家綱がどんな人物かの描写がないどころか、出てこないため、きわめて空虚である。(家綱は最後の最後、事件がクライマックスを迎えたあとに登場)
意図的に虚無感を狙っているのだろう。娘たちが本心から家綱に恋しているようには描かれていないのも意味ありげである。っていうか、まさに、少なくとも片方は、恋はしていないという話。義家を争う二人の女のうち、片方は武衡の娘・操姫。天下泰平のため、自分が敵方の家綱と結婚すれば両家の和睦が結ばれると考えての振る舞いだと最後に明かされる。彼女は大局観ある政略を持っており、自ら政略結婚を仕掛けているという設定なのだ。
この操姫のみ、異様に意思が強い。お前が武将かよって感じ。もう片方の娘のほうがメインヒロインという建てつけだが、傀儡としてのヒロイン。悲惨な目に遭う役割のみを負っており、彼女の意思や人格は存在し得ない。


本作はあくまで運命の流れが物語の主体となっているが、ここまでキャラクターが立っていない状態だと、読み進めるにはちょっと辛いものがあるなと感じた。もちろん、義太夫として演奏するために書かれたものなので、実際の舞台では曲になって、叙事詩的に聞けるのだとは思うが。

ただ、自我は運命に逆らえないというテーマは、本作にとって重要だったのだと思う。戦争や封建制度という社会の車輪の下で、立場の弱い人々が苦しみ押しつぶされるというテーマは非常に強固で明確。
義家や家綱はそれぞれ非常に優れた武将として美麗に描かれているが、人間味は一切描かれず、美しいが冷たい陶器の飾り人形がそこにあるだけかのよう。ほんと、「置いてある人形」みたいな印象。しかし、登場人物たちは義家・家綱の顔色をひたすらに気にし続け、過剰な行動をとる。その不気味さは、存分に描かれている。
階層固定された社会や運命を凌駕する「個」の存在、そのキャラ立てというのは、後世の浄瑠璃、ひいては娯楽の特徴なのだろうか。


読む方法
水谷不倒生=校訂『続帝国文庫 第19編 並木宗輔浄瑠璃集』博文館/1900
青山博之・西川良和=校訂『叢書江戸文庫 10 豊竹座浄瑠璃集 1』国書刊行会/1991

画像出典=『後三年奥州軍記』東京大学教養学部国文・漢文学部会所蔵

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