見出し画像

ちきゅうと私

“ちきゅう”という船をご存じだろうか。

ちきゅうとは、深い水深の海底下を地球の深部まで掘り進み、
マントルに到達できる世界でただ一つの船。
巨大地震の謎を解いたり、人類や地球の起源を解明する活動を行っている。
そのために、日本や世界の海に旅に出るのだ。

そんなちきゅうが母港としているのは、静岡県は清水にある清水港。
清水は私が生まれ育った場所でもある。そのため、清水港で身を休めるちきゅうの姿を、幼いころからよく目にしていた。

大きくて立派な船、ちきゅうは、見るものを圧倒するパワーに溢れている。
特に、夜の海に浮かぶちきゅうは恐ろしく綺麗だ。

夜でも「ここに居ますよ」と存在をアピールするために、船たちはあかりをともす。中でも一番強く光るちきゅうは、周りの小さな停船を巻き込み、まるで絵画のような完璧な夜景を作り出す。

両親が清水港の眼前に家を建てたのも、この夜景に魅了されたからだと言っていた。

ちきゅうのすごいところは、清水港に停泊していないときでも、そこにいるかのように感じるところだ。
実際、1年間に1、2度しか停泊している期間はないらしいが、私の記憶では、ちきゅうはずっと清水港に停まっている。

いないときでも存在感を表せるなんて、偉大だ。



私は、大学進学を機に上京した。
私の大学生活は、一般的なおバカ大学生となんら変わりないものだったと思う。大学での勉強よりもアルバイトが楽しくて、同世代よりも年上と関わるのが楽しくて、東京での刺激的な毎日により、私は身体に要らない垢をベタベタと貼り付けていった。

就職してからも、日々感じる違和感を必死に見ないふりして過ごしていた。就活のための自己分析なんて、本当の自分は見えてこない。
見えてくるのは、「これなら社会に受け入れられるかな」という自分の虚像だけだ。

そんな時代も人生において無駄ではないが、そのときの記憶はほとんどない。生きた心地がしていなかったのだと思う。強がって、踏ん張って、曲げられて捻くれて生きていた。弱かったのだ。

そんなときに帰省し、久しぶりにちきゅうを見ると、
心が落ち着くのに、なぜか泣き出してしまいそうになる。

ちきゅうに見透かされている気がするからだ。

「都会で武装したちっぽけなプライドは、本当に必要なもの?」
「人混みに文句を言いながら、そこに留まり続けるのはどうして?」

ストレートな疑問が、胸に突き刺さる。

そうですよね。本当に、そうですよね。

ちきゅうは私の、忘れかけていたシンプルな願望を引き出してくれる。

この感覚がイタ気持ちよくて、私は月に1度、ちきゅうに会いに清水に帰る。

金曜日、退社して渋谷から高速バスに乗る。18:50、静岡行き。
清水に着くのは21:30頃。

約2時間半の高速旅も悪くない。
高速バスから見える夕空は、視界を邪魔するものが少ないせいか、いつもより壮大で神秘的だ。
夕空をぼーっと眺めていると、いつの間にか眠っている。2時間半なんてあっという間だ。

運転手さんにお礼を告げ、清水駅で下車。
相変わらず人影の少ないこの駅を、少し可哀そうに感じる。都会では人混みが嫌いなのに、地元に人が少ないのは寂しいなんて、矛盾してるけど。

駅にて迎えの車を待つ。
「ちきゅうは今、清水港にいるのかな。どこかに旅に出てるかな」とソワソワしながら。

駅から実家までの、海沿いの道路。
潮風の香りというより、磯臭い匂いが漂ってくるのは、地元に帰ってきたことを実感する瞬間だ。

実家に到着すると、猫が出迎えてくれる。
月に1度しか返ってこない人のことも、家族だと認めてくれているのだろうか。それとも、“スペシャルおやつをくれる人”と思われているのだろうか。

「手洗ってきてね。」
そんなこと、言われなくてもやる。こちとらもう社会人なのだ。
しかし母にとっては、いつまでも言われないとできない子供のままなのかもしれない。高校生までは煩わしいと思っていた母の常とう句も、子ども扱いも、今となっては少し嬉しい。

そして母の手料理を食べる。
「余りものだけど、いいね?」
完全にイエスの答えしか待たないこの質問にも、従順に従う。というよりも、都会独り暮らし6年目の寂しい私にとって、家庭の余りものこそ有難い。
どこぞの店でも食べられる味ではないからだ。

この瞬間ばかりは、幼い頃から食べなれた母の手料理が、特上うな重にも廻らないお寿司にも勝つ。確実にここでしか食べられない、月に一度のご褒美グルメだ。

母の手料理フルコースを堪能したら、不器用な父による決まり文句の出番。
「お風呂、沸いてるよ。」

すでに寝巻に着替えた父や母の姿からも、お風呂が沸いていることは容易に想像できるが、必ずお風呂が沸いていることを教えてくれる。

一緒に暮らしていたときは、両親の小さなひと言に反発しまくっていたが、離れて暮らしてみると、それらひとつひとつが小さな愛情表現だったことに気付く。

変わらない家族の存在にしみじみとしたら、私にはもうひとり、会いに行かなければいけない存在がいる。

夏は熱気がこもってムンと暑い3階。ベランダに出る。

ひときわ強いきらめきを放ち、波に浮かんでいるというよりも初めからそこに創られた建物のように、どっしり、堂々と、ただそこに居るちきゅう。

お久しぶりです。今日はいるんですね。充電中ですか。
私も充電しに、帰ってきたんですよ。
最近は、都会の自分を扱うことにも慣れてきました。
だけどやっぱり、私はあなたの前にいる私のほうが好きです。

どちらが本当の私かと言われたら、分かりません。
たぶん、都会の私も、清水の私も、少し異なるけど本当の私です。

ひとつ、心に決めたことがあります。
旅をしたいんです。あなたのように。
そして色んな特長を持つ土地をまわり、色んな味を持つ人に出会い、色んな自分に出会いたい、そう思うんです。

充電したくなったら、また清水の地に戻ってきます。

ちきゅうはもちろん言葉を発さない。
私も独り言を、ブツブツと声に出すわけでもない。
だけどそこには、ちきゅうと私の無言の会話が確かにある。

この地球上に、ちきゅうと私のふたりだけが取り残されてしまったのではないかと錯覚する時間が流れる。

ちきゅうの前で完全に素直になった思考を、ふわふわ浮遊させていると、「ニャア」とかわいい鳴き声が呼びに来た。

今回のちきゅうとの対話の時間は、おしまいだ。

ちきゅうも私も、清水の地に充電しに帰って来る。旅の疲れを癒し、次の旅に出るために。
大切な場所だけど、今はまだ生涯の住処とするつもりはない。
今のちきゅうや私にとって、ここは充電の場であり、帰ってくるための場であるから。定住したら、帰ってくる、とは言えなくなってしまう。

だから今は、しばらくここで充電していようね。
次の旅に出るために。

おかえり、ちきゅう。
おかえり、私。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?