軽薄探偵ヘッダー

軽薄探偵 プロローグ01

 新宿、歌舞伎町界隈のとある雑居ビルの前に、ひとりの女が立っている。長い髪がビル風を受けてなびいている。そしてその風は、この界隈に常に漂っている不快な匂いを女の鼻に運ぶ。女は一瞬顔をしかめる。グレーのパンツスーツがさまになっている。
 女の名前は伊藤綾子。殺人課の捜査官だ。綾子は、「嘘」を見破る特殊な才能を持っている。相手が何かしゃべったとき、「微表情」という、顔のほんの少しの動きから嘘をついているのかそうでないかがわかるのだ。
 綾子の顔は美人の部類に入るのだろうが、やや鷲鼻で、さらに目もつり上がり気味であるため、「高圧的」なイメージを相手に与える。このイメージと、嘘を見抜く能力で、取調室で、何人もの殺人犯を自白に追い込む。それゆえ、仲間内からは「えんま女王」という、嬉しくないあだ名で呼ばれている。

 さらに、綾子には「ひらめき」という武器もある。難事件解決のきっかけとなる捜査の糸口を「ひらめき」で思いつくのだ。だから、彼女には特別に「単独捜査」がゆるされてる。
 今、ある捜査のために、綾子は歌舞伎町の雑居ビルの前に立っているのだ。綾子はこの界隈が嫌いだ。常に腐ったような匂いが立ちこめている。できれば近寄りたくない。早く用件を済ませて、この場所から立ち去ろう……。
 ヒールの音を響かせながら、綾子は雑居ビルの中に入っていった。エレベーターに乗り、「4」の数字を押した。ドアが開いた正面に、目的の場所はあった。
 薄汚れたドアに、遠慮しているかのように小さく白いプレートが貼ってある。そこには、
「安野探偵事務所」
 と、書かれていた。古いビルだが、ドアの横に「チャイム」がついていた。綾子はそれを押した。
「ピンポーン」
 と、部屋の中でチャイムの音が鳴っているのを綾子は確認した。はーいという男の声が聞こえた。ほどなくドアが開いた。
「なんか用?」
 少しだけドアが開いて、男の斜め横顔が見えた。なんだ? その物言いは。私が依頼人なら帰ってしまうところだ。いや、それよりも綾子は男の風貌が気になった。普通、探偵というのは、町中などで「尾行」などの仕事を行うこともあるだろうから、無難なサラリーマン風の格好をしているのに、この男と来たら、自分より長いのではと思われる髪を後ろで束ね、丸形の薄いサングラスをかけ、無精髭をはやしていた。こんな風貌で探偵が務まるのか? 内勤専門の男か? 
「警察の者なんですが、捜査の協力をお願いに伺いました。所長さんはおいでですか?」
 少しだけ開いていたドアが、綾子の方に向かって迫ってくる。綾子は二、三歩後ずさった。男は、そこまで開けなくてもいいと思うほどドアを大きく開いて、
「どうぞどうぞ〜」
 と言った。ここが歌舞伎町だからなのか、男の口調には軽薄なニュアンスがあった。
「失礼します」
 綾子はそういい、ヒール音を響かせて部屋の中に入った。部屋をぐるりと見回した。所長らしき人物はいない。こことは別の部屋があるのだろうか……。
「すいません。所長さんは?」
「あなたの前にいるじゃないですか~」
 綾子は虚を突かれた思いだった。それはこの妙な風貌の男が所長だと名乗ったからではない。綾子は「嘘」だけでなく、当然「本当」も見抜く眼を持っている。表情筋の微妙な動きでそれが分かるのだ。その能力は幼いころから有していた。そして、警察機構に入ってからはその能力はさらに研ぎすまされて精度を増し、綾子は100パーセント、人間の感情を見抜く自信があった。
 しかし、この男は、自分が所長だといった。それが本当なのか嘘なのか、綾子にはわからなかった。何故、この私に、この男の話の真偽が掴めなかったの……。こんな男、というか、こんな人間に会ったのは初めてだ。
「冗談言ってないで。所長はいるの? いないの?」
 風貌的に、この男が「安野探偵事務所」の所長であるわけがない。綾子は男が言ったことを「嘘」の方に賭けた。ちょっとした、いや、かなりの屈辱だった。
「うーん、いや、だから僕がここの所長なんだってえ。まあ、立ち話もなんですから、中へ?」
 またも真偽が見抜けない。本来、この手の軽薄そうな男を綾子は嫌い、顔も見たくないと思うのだが、この男はよく観察しなければならない。見抜かなければならない。で、なければ、この嫌いなエリアに足を踏み入れた意味がない。
「では、おじゃまします」
 綾子は部屋の中央へと足を進めた。部屋は呆れるほどに殺風景だ。正面にデスクが一つ、左側は資料だろうか、本棚のようなものに大量のファイルケースが刺さっている。それだけだ。なんだここは? 観葉植物のひとつでも置いたら、依頼人も少しは心を開くだろうに。いや、それ以前に、依頼人の座るソファもないのか? これでは、中でも立ち話しかできないではないか……。
「警察の方っていいましたねえ、あなた。うーん、で、どんな用件で来たんですか~」
 このおかしく間延びした口調は綾子をいらだたせる。もう、この男が所長でも、そうでなくてもいい。ここにきた目的を早く片付け、この場所から離れたかった。
「あなたのところに、入江百合子という女性が、御主人の浮気調査の依頼をしたはずですが、その資料を押収しにきました」
 ふふーんといった顔で、男は部屋の奥へと歩いていき、正面のデスクに向かった。椅子に座り、引き出しを開け、何か紙を取り出した。
「はーい。名刺をどうぞ。ここの所長、安野ジョーです。うーん、あ、そうそう、名前はカタカナなんでね。本当は違うけど、カタカナで名刺作っちゃったんで、下の名前はカタカナで呼んでね」
 カタカナで呼ぶ? 音にすれば漢字だろがひらがなだろうがどれも同じじゃないか……。綾子はこの男の物言いにいっそう不快感を覚えたが、とりあえず差し出された名刺を受け取った。「所長」の文字が見えた。
「うーん、でさあ、思うんだけど、警察だからって、いきなりやってきて『押収』はなくねえ? 礼状とかあるんすか〜?」
 綾子は、この男の、人をなめたような態度についにキレた。デスクを右手で「バン」と叩くと、
「ごちゃごちゃ言ってないで入江百合子が依頼した、夫の浮気調査のデータを出しなさい!」
 と脅した。
「うわお、出ましたね~、さすが、えんま女王だわ~」
 綾子はギクリとして、テーブルに着いた右手を思わず引っ込めた。私のことを「えんま女王」と呼ぶのは警察関係の人間に限られる。なのにこの男はどうしてその呼び名を知っているのか……。

(つづく)

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