軽薄探偵ヘッダー

軽薄探偵 第七章 真相(3)

 西荻窪のドトールを出た綾子と安野は、タクシーで中野に移動した。
「えっと、あれが水島結花が働いているスーパーだよ。で、向こうの方に彼女が住んでいるアパートがあるんだけど……。まだ水島が仕事からあがるには早い時間だなあ……。彼女は早番でねえ。午後6時に仕事が終わるんだけど……まっすぐアパートに帰るかどうかが問題だなあ……。あ、そうか。彼女は殺人犯なんだから、その辺をうろうろしたくないはず。まっすぐアパートに帰るね~」
「安野さん、それは『憶測』の上にたった『憶測』です。水島が犯人と決まったわけじゃないんですから!」
「うーん、ま、ここまで来たことだし。水島結花が犯人だって、とりあえず決めちゃおう」
「と、とりあえず?」
「サイコロもとりあえず振るものだよ。半とでるか長と出るか。どちらかに賭けないとゲームは成立しないんだぜ~」
「捜査はゲームじゃありません!」
「おっとと、女王ちゃんは『推理ゲーム』ってジャンルを知らないのかい? 現実と架空の間にベルリンの壁があるわけじゃなし、現実捜査もゲームみたいなものよ~」
 綾子は、もう口を閉じていることにした。この男のおかしな言い回しにはもううんざりだった。
「女王ちゃんと、水島とをどこで接触させるかなんだけど……あまり人気のないところだと警戒されてしまうからあ、うーん、おおおお、スーパーと水島のアパートの途中に『商店街』がある。まだ通行人も多く歩いている時間帯だから、女王ちゃんが水島に接触しても警戒されないでしょ」
 綾子は感心した。この安野という男は、おかしなことばかり言っているがときおり鋭いところを見せる。なんというか、捜査に慣れている感じが見えるときがある。今は探偵業をしているが、かつては警察関係の仕事をしていたのではないだろうか……。
「安野さん。もしかしてかつては警察にいらしたとか?」
「おやややや、何でそんなこと聞くの?」
「警察機構のことに詳しいようですし……」
「女王ちゃん。僕の仕事知ってるでしょ。探偵よ。探偵ってのは、この世の中の大半のことに詳しくないと務まらない仕事なのよ~。今の女王ちゃんの質問のこと、探偵業界では『愚問』っていうんだよ。覚えときな~」
 真偽を計ろうとした質問だったが、煙に撒かれてしまった……。やはり口を開かない方がよかった。
「ま、とりあえず商店街にいって、お互いのポジションなんか決めちゃおうよ。ほーら、なんかゲームっぽいでしょ~」
 安野は笑っている。本当にゲームのつもりで、私と水島とを接触させようとしているのだろうか……。

 商店街には確かに人通りが多かった。安野は、商店街の入り口から、かなり奥まったところにある路地に綾子を連れて行き、そこに立たせていた。安野はここへ来てから、すでに三本タバコを吸っている。このあたりは本来なら路上でも禁煙のはずなんだが……。
「恋人との美しい心中を夢見た水島だけど、運命のいたずらってやつは怖いねえ。今や『凶悪犯人』だものなあ」
「すべて安野さんの憶測です!」
「それをもうすぐ確かめられるんじゃない~。えっと、六時だ。水島が仕事から上がる時間だ~。着替えたりなんだりで……10分後には、この商店街に入ってくるね~」
 綾子はにわかに緊張し始めた。心臓の鼓動が普段より速いのがわかる。安野の話は憶測だと笑っていたのに、実際に水島と会うとなると、なんとも言えない緊迫感のようなものが体を走る。安野はポケットから望遠鏡のようなものを取り出した。
「へへええ。これ、探偵の七つ道具ね。遠くのものもバッチリ見える。あ、ちなみに、当然だけど、自動的に消滅しちゃうカセットテープも持ってるんだよ~」
「で、安野さんの作戦では、私はどう動けばいいんですかねえ?」
 綾子は緊張を悟られないように、あえて軽口で聞いた。
「女王ちゃんは水島の顔を知らないねえ。僕は知ってる。だから、水島の姿を確認したら、服装の特長を言って、『GO!』って言うよ。『行け』じゃなくて『GO!』だよ、ちょっとかっこいいでしょ~」
 今の安野の言葉で綾子は落ち着いた。水島と接触して何か話しかけても何も起こらない。この男の妄想なんだから。これが終われば、このおかしな男からも解放されるだろう…。
「あ、来たぞ! 黄色っぽい上着に白いパンツの女だ。わかる?」
「はい」
「じゃあ、いくよ~。『GO!』」
 安野に背中を押され、綾子は路地から商店街に出た。なるべく自然に歩いた。水島もこちらに向かって歩いてくる。あ、そうだ! 何を聞いたらいいんだ……。
 杉並の事件はメディアもさかんに取り上げている有名な事件だ。その類いの質問をされたら、誰でもいやな顔をするに決まっている。入江佑司を知っていますか? というのはどうだろう? だめだ。水島が犯人だろうが違おうが、佑司との関係は「秘密」のものだったはず。「知りません」と答えるだろう。「嘘」の表情を浮かべながら。決め手にならない。水島との距離は次第にちぢまっている。私が「嘘」と確認できる質問はなんだ……。
 ついに接近だ。綾子は一度水島とすれ違い、すれ違った後から水島の存在に気がついたように水島の背中に向かって声をかけた。まだ、いい質問は浮かんでこなかった……。
「あの、すいません……」
 水島結花が振り返った。
「あなた……あなた、ひょっとして……犯人ですか?」
 水島の形相が、一瞬にして、まさに「鬼」のごとく変わった。……しまった。ばかな質問をぶつけてしまった。安野の推理は当たっていたのかも知れない。恋人との美しい心中を企んだこの女は、運悪く「凶悪犯人」のレッテルを貼られるハメになってしまった。毎日おびえながら生きていたのだ。さらに「捨て鉢」にもなっているだろう。……鬼の形相からは何も読み取れない。感じるのは「恐怖」だけだ。
 水島は、持っていたハンドバッグの中から、刃渡りの長い包丁のようなものを取り出した。凶器を持ち歩いていたのか? 残念ながら綾子は、対抗する武器を何一つ所持していなかった。
 水島が包丁を振り上げた。逃げるしかない。綾子は商店街の入り口の方に向かって全力疾走した。
 ヒールの靴が仇になった。綾子は賢明に走っているのだが、ヒール音が商店街にカーン、カーンと響くばかりで、速度が出ない。商店街の入り口ははるか彼方だ。水島はシューズを履いていた。すぐに追いつかれてしまった。
「だめだ! まっすぐ走るんじゃない! 左右に動け。相手を翻弄しろ!」
 背後から安野の叫び声が聞こえた。綾子は体重を右にかけようとした。またしてもヒールが仇になった。こむら返りのように足首がひねられた。綾子は体制を崩し右側に向かって大きく体が傾いた。水島が振り下ろした包丁が、綾子が倒れ込む際に上がった左の二の腕を襲った。
 梃子の原理というのだろうか。綾子の二の腕はざっくりと切られ、血が飛び取った。綾子はそのまま路上に倒れ込み、地面を滑って、飲食店の「ゴミ回収所」のゴミ袋の間に頭を突っ込んだ。あまりの臭気に、綾子は気を失いそうになった……いや、違う、これは臭気のためではない。左腕を見てみた。血がどくどくと溢れ出している。大動脈? とにかく危険な血管を切られたようだ。なんとかしないと出血死してしまう。綾子はゴミ袋の間から、かろうじて顔をあげた。
 安野が水島と格闘していた。水島はめちゃくちゃに刃物を振り回していた。安野はそれを巧みにかわしては、水島の刃物が届く距離に体を移動させていた。……相手を疲れさせているんだ。何人かいた通行人はみんな固まって動かない。水島の動きが鈍ったところで、安野は水島が刃物を持っている右手首に平手打ちを加えた。刃物は水島の手を離れ、地面に落ちた。安野は水島の背後に回り、右腕を後ろ手に抑えた。……刑事の動きだ! 
 綾子は安野に加担しようと体を動かそうとした。……動けない。もう、そんなに出血しているのか……。意識が朦朧としてきた。
「おい、誰でもいい。そこに倒れている女の左腕を止血してくれ!」
 安野が叫んだが、通行人は相変わらず固まったままだ。安野は水島の右手を後ろ手にしてしっかり握ったまま、しゃがみ込み、水島が落とした刃物を拾った。そして、その刃物を水島ののど元に突きつけた。
「よく聞け、水島結花。俺は警察の人間じゃないから、お前を逮捕などしない。お前が何者かも詳しくは知らない。だが、今、俺の目の前でお前は傷害事件を起こした。しかし、その罪も問わない。俺の言うことを聞けばな。わかったか!」
 そういいながら、安野は持っている刃物を水島ののど元に、さらに食い込ませた。水島は小さくうなずいた。
 安野は水島を抑えながら、水島が持っていた刃物を使って自分の左肩のあたりを切った。血が流れ出した。次に安野は左の袖口を噛み、強く引っ張った。ビリビリと布の裂ける音がして、安野の上着の左腕の部分は、上着から完全に離れた。
 安野は再び水島の首に刃物を突きつけながら、
「いいか、これで、お前が傷つけた女の左腕の付け根をしっかり縛るんだ。わかったな」
 再び水島が脅えた顔でうなずく。安野は後ろ手に抑えていた水島の右手を解放し、今、裂きとった上着の一部を水島に渡した。安野が持っていた刃物は、水島ののど元から背中に移っていた。水島は安野のいう通り、綾子の左腕の付け根を縛り上げた。流血は治まらなかったが、激しいものではなくなっていた。綾子には限界が訪れていた。安野に向かって何か言おうとしたが、すでに意識を失う寸前だった。
「おい、伊藤、しっかりしろ! 今、水島結花が杉並事件のことを自供したぞ。伊藤!」
 綾子は、安野の言葉を最後まで聞き取れなかった。意識が遠くなっていった……。

(つづく)

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