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赤いバラと「贈与」との関係 つづき

昨日、『赤いバラと「贈与」との関係』というテーマで書きました。

今日はその続きです。
『世界は贈与でできている』を読み進めています。

すると、つぎのような箇所に目が留まりました。

贈与は受け取ることなく開始することはできない

まて、まてと!
赤いバラを妻へ贈与したと思っていた私は、ひょっとして、それって贈与じゃないのかも?
自分、贈与するまえになに受け取ってたんだっけ!

と思って、さらに読み進めると、次の文章が気になりました。

「無償の愛」という誤解

親は、愛という形で子に贈与をします。(中略)
つまり、親が子を育てるのは一方的な贈与です。見返りを求めない、いわゆる無償の愛です。
けれども、「無償の愛」という表現には、誤解が含まれています。
どういうことか。
贈与の宛先である子供からの見返りを期待しない、という点では正しい。
ですが、無から生れる愛、というのは誤解です。
あるコミュニケーションが贈与であるならば、そこには先行する贈与があります。その「私は受け取ってしまった」という被贈与感、つまり「負い目」に起動されて、贈与は次々と渡されていきます。
親の無償の愛の以前に、何があるか。
それは、そのまた親(子から見れば祖父母)からの無償の愛です。
無償の愛は必ず「前史」=プレヒストリーを持っています。
それは、愛以前の愛、贈与以前の贈与と言うこともできます。

さらに文章は続きます。

それゆえ、意識的か無意識的かを問わず、負い目を相殺するための返礼、つまり、「反対給付の義務」が子の内側に生じます。
反対給付の義務に衝き動かされた、返礼の相手が異なる(つまり恩「返し」ではない)贈与。これこそが「無償の愛」の正体です。(中略)
では、親は何をもって自分の愛の正当性を確認できるのでしょうか。
子がふたたび他者を愛することのできる主体になったことによってです。

そうか!

私は、妻へ赤いバラを贈ったのは、やはり「贈与」なのだ!
私は、妻へ贈るずっーと前から、親から無償の愛を受け取ってきて
いるんだ。
負い目というのには抵抗感があるけど、「反対給付の義務」みたい
なものに衝き動かされて、日頃の感謝の気持ちを込めて妻へ赤い
バラを贈与したのかもしれない!
贈り先が親ではないところが、やはり「贈与」なのだ。

とても腑に落ちました。モヤモヤがようやく解消しました。
交換ではない、贈与!

やはり奥が深いですね。




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