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「ファン」とは何かを考える

このノートは何?

このノートは、「ファン」とはどういった属性であるのか、どういった振る舞いがそれにふさわしいかを考えるノートです。これを今一度考えることによって、ファン活動の対象となる人物や事象に対して適切と思われるファン活動をしていくことを目指します。

(長くなってしまいました。本題は「「ファン」がしてはいけないこと?」になります。お時間なければそこだけお読み下さい。)

「ファン」とはどういった属性であるのか

次の文章はWikipediaからの引用です。

ファン(英: fan)またはフアンは、特定の人物や事象に対する支持者や愛好者のこと。

ファン - Wikipedia

より分かりやすく言えば、ファン活動となる対象をただ好きであること、これに尽きます。

「ファン」にできること

筆者は、ファンにできることは、大きく分けて2つに限られると考えました。つまり、「応援」と「評価」です。また、この2つにはそれぞれ積極的な方法と消極的な方法があり、「評価」に関しては、ポジティブな評価とネガティブな評価をすることができます。以下で詳述します。

ファンにできる「応援」とは

次の文章はWikipediaからの引用です。

エール (yell, イェル) は、応援団や応援する者が応援される者へする声のことで、応援手法の一つである。

エール (応援) - Wikipedia

Wikipediaでは「スポーツにおける応援」という非常に限定された意味で書かれていますが、ここでは「応援する者が応援される者へする声のこと」として理解して差し支えないです。また、辞書には「元気づけること」という様に書かれています。
対象となる人物や事象を、かっこいい、かわいい、楽しい、ワクワクさせてくれる等々の理由から、人は「ファン」となり、「元気づける」ためにあらゆる手段で「声」を届けて応援します。これが「ファン」のできることの一つです。

では積極的な応援とは何か、具体例から考えてみます。
①試合、コンサート、ライブ等で直接声援を送る
②関連グッズ、サービスを購入する
③グッズ、ファンアート等を作成する
④ファンレターや差し入れ等を贈る


他にもあるかもしれませんが、とりあえず以上のことが挙げられます。
④に関しては、直接ファンレターを送る以外に、ブログやSNSで対象についての感想を書いたり、対象の動画にコメントを書いたりすることも含まれます。
共通するのは、有形無形に関わらず、対象に向けて直接「声」を届けるということで、積極的な応援と言うことができます。

次に消極的な応援を考えます。
①試合、コンサート、ライブ等を料金を始めとする対価を支払わずに視聴する
②対象についての感想を対象が見ることができない方法で表現する
③対象に対して情報量のない「声」を届ける


①と②は自分は対象のサービスを享受するものの、そのフィードバックを対象が知るすべが無いように行う、ということです。
③に関しては、いわゆる「おけまるbot」です。派生として「了解ですbot」「ありがとうございますbot」などがあります。これに関しては消極的と言うよりも退廃的(非道徳的で不健全)な応援と言う方がふさわしいです。というのも、これらが発する「声」は情報量がゼロであり、何も言っていないのと等しいからです。百歩譲って感謝を述べることは素晴らしいことだといえますが、しかし何に対して感謝しているのか分からない「声」が多いように思います。昨日の配信が楽しかったのか、販売されたボイスに満足したのか、開催されたライブに感動したのか、一言でも感想を言えば積極的な応援になるのです。毎日毎日情報量のない「声」を思考停止で届けることの意味はこれっぽっちもありません。「好き」ならその感情をどんなに稚拙な表現でもいいから「声」にして届けるのです。それが「ファン」にできることであり、「ファン」にしかできないことです。「ファン」になりましょう。

ファンにできる「評価」とは

次の文章はWikipediaからの引用です。

評価(ひょうか)(英: evaluation, assessment)は、
物事・性質・能力などの良し悪しや美醜などを調べて価値を定めること。

評価 - Wikipedia

ざっくり言ってしまえば、goodかbadか決めることです。
ファンは対象の何に対して評価をするのでしょうか。それは、対象の試合結果や、パフォーマンス、サービスの質や量等々について評価をします。

さて、「ファン」は対象の評価をする立場にあるのでしょうか。筆者はファンはその権利を有すると考えます。例えば、最近ではラグビー日本代表の活躍によって、ラグビーファンが急増し、その注目度が跳ね上がり、先のワールドカップでは日本中が熱狂していました。そこでファンは一戦一戦のプレーに一喜一憂し、その勝敗を固唾を飲んで見守り、試合後は感想を共有しました。
この活動は「評価」と呼べるものです。そしてそこには、ポジティブな面とネガティブな面が必ずあります。あのプレーが良かった、あのパフォーマンスは失敗だった、あの場面でゴールを決めたから…この場面でファールしなければ……。だから、あの人を応援する、あのチームよりこっちのチームが好き、あのグループは勢いがあってあちらは最近は……。などなど
ファンの活動は全て「評価」と密接に関わっています。「評価」するから「好き」になって「応援」するのです。

「ファン」がしてはいけないこと?

それでは、「ファン」がしてはいけないことはあるのでしょうか。もちろんあります。「ファン」がしてはいけないことをする人を、しばしば「アンチ」などと呼びますが、アンチを定義することはファンを定義することとは次元の違う難しさがあります。このノートの議題ではないのでそれは定義できませんが、しかし「ファン」がしてはいけないことは論じることができます。

①ファン活動となる対象を誹謗中傷すること、理不尽な評価をすること
誹謗中傷に関しては論外です。
理不尽な評価とは、いわゆるクレーマー的な「声」を上げることです。相手を屈服させ、自分が気持ちよくなるための表現をすることがこれにあたります。


②他のファンを攻撃すること
他のファンとは、自分の贔屓の対象、もしくは贔屓でない対象の他のファン全てのことです。ファン同士の闘いほど不毛なことはありません。何も生み出さないし、むしろあらゆるものを破壊していきます。つまり、ファン離れのきっかけとなり、またファン活動の対象そのものへの悪影響を及ぼします。

③他のファンに沈黙するように要求すること
たまに他のファンに対して、「サービスを享受しているだけの存在なのだから文句言うな」とか、「どんな「声」を上げても届くことはないのだから黙るか去るかしろ」と言う人たちが見受けられます。一体なぜファンがファンに対して「黙れ」だの「いなくなれ」だの言うことができるのでしょうか?どういった権利があってファンを排除しようとするのでしょうか?もちろん①や②のようなファンを見かけたのであれば、それは自浄作用として正す必要があります。しかし、上記の言明はその範疇を明らかに超えてしまっています。

こういった人たちは、次の④⑤にも関わってくることですが、自分の立場を見失っているように感じます。ファンはファンの立場を離れて何かを表明することはできません。あなたがファンであるのならば、ファンの立場から物言いを行って下さい。どうか自分を見失わないで下さい。

④ファンの条件を極端に厳しくしてファンをファンであると認めないこと
例えば、「多くのファンはファン活動の対象にろくに金を落とさないからファンでは無い。だから、あなたはファンでは無いから一切の文句を言ってはいけないよ」、という人がいます。なるほどファン活動の対象の責任者がその様に言ったのなら沈黙するほかありません。しかし、これをファンがファンに対して言っている例があるのです。
お金を落とす量でファンかどうかが決まるのでしょうか。違います。ファンである条件は、対象を「好き」であること、ただそれだけです。学生、とりわけ中学生以下の自由な金銭を工面できない層は、お金を落とすことができないからファンではないのでしょうか。グッズを10万以上買った人だけがファンで、それ未満の人はファンではないのでしょうか。時間のない社会人は、ライブに行けなかったり配信を見られなかったりするからファンではないのでしょうか。対象のすべての活動の8割を追えている人だけがファンで、それ未満の人はファンではないのでしょうか。そんなわけがありません。かけた時間やかけたお金でファンかどうか決められる謂われはどこにもありません。
ファンの条件は、ファン活動の対象をただ「好き」であること。
ただただこれだけなのです。

⑤ファン活動の対象者の責任者の立場に立って意見を表明すること

ファンはファンであり、それ以上でもそれ以下でもありません。間違っても、監督者や責任者、運営の立場からの意見を代弁することがあってはいけません。

たまに、ファン活動の対象ではなく、その責任者が「好き」なんじゃないかと疑われる人がいます。その責任者へのネガティブな評価を見ると、その評価者であるファンに対して糾弾する振る舞いをする人です。なぜ自分がネガティブな評価を受けたわけではないのにそのような行動を取るのでしょうか。興味深い記事がありましたので以下にリンクを貼り、重要な部分だけ引用します。

スポーツファンが応援するチームを自分自身と混同してしまう心理とは?

スポーツファンは自身の愛するチームから、自尊心の他にアイデンティティーや帰属意識なども育んでもらっているそうですが、同時に仲間集団に対する過剰な認知バイアスも形成してしまうそうです。

この認知バイアスによって、

チームが不正行為で非難されたりした場合、チームのファンは本能的にチームを擁護しようとしてしまうわけです。

つまり実際に、自分がネガティブな評価を受けたと錯覚してしまうわけです。認知バイアスは強力なバイアスで、自己認識することが非常に難しいです。もし、この記事とこのnoteを読んだのならば、自分がそうかもしれないと、一度でも良いので考えてみて下さい。

また、どの立場からの言明か筆者には想像もつかないのですが、ファンがアイドルに対して説教した例があるようです。そこでは、激励の言葉をかけたとしつつも、必要性の疑わしい義務と種々の問題の責任を彼女に課し、反省を促して「彼女の退路を断つ」ための批判の文章を書いています。
少なくともこんな文章がファンができる正当な「評価」であるはずはなく、まして「応援」ですらありません。
「評価」したいのであれば、時系列にそって問題点を挙げ、根拠となる動画像やデータを用いた評論をするべきです。当の問題が非常に繊細で慎重をようするものであると理解しているはずです。「応援」したいのであれば、まるで彼女に多くの落ち度があるかのように説教のような文体の書き方をする必要はまったくないはずです。ただ「待ってる。がんばれ」で済む話ではないでしょうか。
当該文章の筆者には、対象の人物の目に留まる前に早急に文章の公開を停止することを求めます。対象の人物の活動に著しい悪影響を及ぼす可能性があるためです。

⑥ファンに対して、ファン活動の対象あるいはその責任者となるよう勧めること
無茶言わないでください。

終わりに

これまで、ファンとは何かについて、いち「どっとライブファン」である筆者の目線から考えてきました。ファンの定義に関して様々あると思いますが、筆者は野球チームの「ファン」で、アーティストの「ファン」で、女性アイドルの「ファン」で、アニメ・ゲーム・漫画の「ファン」であったことがあります。だから、それなりに、ファンとしての振る舞いがわかっているつもりです。上記のことはその経験からくるもので、そんなに大きく的はずれなことを言っていないつもりです。
そして今、どっとライブの「ファン」になりました。ここでは、どうやら「ファン」であることを見失っているファンが他の業界よりも圧倒的に多くいるように感じます。
このnoteを通じて「ファン」であることに目覚め、みんなで良いファン活動ができるようにしましょう。どうぞよろしくお願いいたします。

2019/11/12 フジハラ

                              

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