見出し画像

伊能忠敬をうんだ小江戸・佐原のまちなみ

 伊能忠敬の歩みをたどりたくて2023年9月末、佐原(千葉県香取市)をたずねた。

 立派な木造駅舎は、明治か大正のものをつかっているときいたことがあったが、ちがった。
 1898(明治31)年に私鉄の成田鉄道の終着駅として開業し、1929(大正9)年に木造駅舎がたてられた。2007年にリニューアルされたが、わずか3年後に2010年に解体され、翌2011年に現在の駅舎が新築されたという。大正の駅舎をのこしてほしかったが、重厚な木造駅舎は期待をもたせてくれる。
 駅をでて東へ5分ほどあるくと小野川という運河のような川にでた。

 川沿いには商家建築や土蔵がならぶ。油屋、材木屋、乾物屋、金物屋、荒物屋、家具店、ザルや籠の店……フランス料理店やカフェになっている古い商家もある。赤煉瓦の建物は「川崎銀行佐原支店」という看板がかかっている。その繁栄ぶりから「小江戸」とよばれていた。まちなみは1996年、東日本ではじめて重要伝統的建造物群保存地区に指定された。

 千葉日報によると、利根川の汽船と鉄道の接点であり、1926(大正15)年には全国3位の貨物発送量を記録した。
 川から200メートルほどはなれた八坂神社は素戔嗚(すさのお)尊をまつる。この神社の「祇園祭り」の山車行事は全国の「山・鉾・屋台行事」のひとつとして「ユネスコ無形文化遺産」に指定されている。

 小野川沿いは柳がゆらゆらとゆれ、水面までおりる階段があり、「舟めぐり」の川舟がうかぶ。そんな川沿いに伊能忠敬の旧宅がある。


 忠敬は小関村(九十九里町)の出身だが、17歳で名門伊能家の婿養子になった。
 伊能家は酒造りを中心に、米の商売や舟での運送を手がけ、江戸には薪や炭の店もだしていた。当時の佐原は、米や酒、醤油、薪を江戸に供給する一大拠点だった。それらの積みおろしが便利なように小野川に面して家並みが形成され、「だし」とよばれる階段で小野川におりられるようになっている。旧宅は昭和20年代まで伊能家の住居として利用されてきた。
 隣の「宮定」という屋号の家は、明治26年にたてられた。代々魚問屋やカマボコの製造販売をしてきたが、今は割烹の店になっている。

 旧宅の目の前に熊本の通潤橋のように水がジャージャーとながれる木造橋がある。
 「ジャージャー橋」とよばれ、戦後まで農業用水の水路がとおり、樋から小野川に水がながれだしていた。平成4年に木造にかけかえられ、ジャージャー橋は復活した。
 旧宅から小野川をはさんだ対岸に「伊能忠敬記念館」がある。500円。
 忠敬は当主をついだ29歳から49歳のあいだに伊能家の収入を3倍以上に増やした。
 息子にわたした自筆の家訓の2番目には、目上の人はもちろん、目下の人のいうことでもなるほどと思ったらとりいれなさい、と記している。柔軟な人なのだ。
 50歳で江戸にでて、19歳年下の高橋至時に弟子入りして天文暦学をまなぶ。
 暦の信頼は日食を予測できるか否かにかかっていた。天皇に改暦を上奏する役目は陰陽師・安倍晴明のながれをくむ土御門家が長らくになっていたが、1763年の日食の予測に失敗した。逆に高橋の師である麻田剛立らが成功して注目をあびた。日食を予測するには、緯度1度の長さを正確にきめる必要がある。そのため、高橋の意をうけた忠敬は東日本沿岸を測量してまわり、緯度1度の距離をきわめて正確にわりだした。それが評価されて幕臣になった。
 忠敬は17年間も全国測量をつづけた。緯度は現在の地図とかわらぬほど正確だったが、経度は若干のずれがある。経度の測量に不可欠な正確な時計がなかったからだ。地図づくりに天体観測を利用したのは忠敬がはじめてだったという。
 彼の死後、弟子が地図づくりをひきつぎ、大図(3万6000分の1)214枚、中図(21万6000分の1)8枚、小図(43万2000分の1)3枚が完成した。
「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」正本は江戸城におかれたが、1873年の皇居火災で焼失した。伊能家が所蔵していた副本は1923年に関東大震災で焼失した(献納された東京帝国大学の附属図書館で?)。うしなわれたと思われたが、2021年に伊能小図「実測輿地全図」の存在が確認された。

 小野川を20分ほどくだると水門があり、そのむこうは利根川だ。「道の駅 水の郷さわら」で千葉特産の生落花生が450円と格安だったので購入した。ここから利根川にカヌーをこぎだせるようになっている。
 一度、まちなみまでもどって、駅の近くの諏訪神社へ。諏訪大社とおなじ、タケミナカタの神(建御名方神)をまつっている。さきほどの八坂神社も諏訪神社も出雲系なのだ。

成田山新勝寺

 1時間に1本の電車で成田へ。センターホテル成田(6500円)に荷をおろし、成田山新勝寺を参った。
 2009年の大晦日以来だ。
 鉄砲漬けや、せんべいや甘栗やウナギ屋がならぶにぎやかな参道をたどる。

 参道を下りきると、左手の山門をくぐって石段をのぼる。前回は本堂だけ参拝したが、今回は人がすくないから裏にまわってみた。高床式の「額堂」(絵馬などを奉納する建物)、光明堂は「愛染明王」がまつられている。わきの天水桶が立派だ。天水桶、関東ではしょっちゅうみるのに、関西ではなぜかめだたない。灘の酒を江戸にはこんだ樽を天水桶に活用したとなにかにかいてあったけど……。

 光明堂の裏の「奥之院」は奥行き11メートルの洞窟で、奥に大日如来がまつられている。毎年祇園会と祇園祭の期間だけ開扉される。
 てっぺんの平和大塔は高さ58メートル。1984年に建立され、きらびやかな明王堂には不動明王がまつられている。建立当時の寺はこんな極彩色にいろどられていたのだろう。
 成田山は、平安時代中期の平将門の乱のとき、朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正が、乱を平定するため、弘法大師開眼の不動明王の尊像を遷座したのがはじまりとされる。その霊験のせいか将門は敗れた。成田山は、源頼義、源頼朝、千葉常胤、徳川将軍家や徳川光圀(水戸藩主)ら有力武将の崇敬を受けた。歌舞伎役者の初代市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったこともあって、成田不動は庶民の信仰を集めた。
 でも、不動さんならば権力側ではなく、反骨の将門を応援してほしかったな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?