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薄口醤油の聖地・龍野は哲学者の故郷

 兵庫県たつの市に「うすくち龍野醤油資料館」があるときき、青春18切符で訪ねることにした。なぜ、あの場所に有数の醤油の産地ができ、薄口醤油をうみだしたのだろうか。

ソーメンと醤油の城下町

 正月明け、姫路駅から姫新線のディーゼルカーに乗りかえて20分、本竜野駅におりた。なだらやかな山にかこまれた盆地は冷たい霧雨にけぶっている。龍野は「揖保乃糸」でも知られる日本最大の素麺産地でもある。ソーメンの組合の前をすぎて20分ほど歩いて揖保川をわたると、対岸の山のふもとに、白壁の土蔵や商家風の家がつらなる古い町並みがひろがっている。城下町風の町には、和菓子店やなぜかマレーシア料理の店も。小学校の正門は贅をこらしており、かつての繁栄をおもわせる。醤油ともろみの自販機にもびっくりした。
 この町並みは2019年、重要伝統的建造物群保存地区に指定された。


 山際に「龍野城」がある。昔は山上に天守があったらしい。そのわきの「歴史文化資料館」で町の歴史をたどった。ソーメンづくりは、本山村(神戸)などの灘素麺への出稼ぎで技術をならうことで19世紀前半にはじまったという。

「うすくち龍野醤油資料館」は、旧菊一醤油の本社事務所として1932年に建てられた赤煉瓦の洋風建築で、その後、龍野醤油(ヒガシマル醤油)の本社事務所となり、1979年に江戸時代の醤油蔵とともに改修されて資料館になった。入場料は10円。
 日本の醤油づくりは和歌山県の湯浅周辺ではじまり、小豆島や龍野、讃岐、遠く千葉県の銚子などにつたわった。龍野の醤油業は17世紀後半(江戸初期)にはじまり、薄口醤油をうみだし、18世紀には京都市場への最大の供給地になった。

赤穂の塩、鉄分の少ない水

 日本の醤油の85%が濃口で、薄口(淡口)は11%。なぜ龍野が薄口醤油最大の産地になったのか?
 醤油の原料は小麦と大豆と塩と水だ。
 瀬戸内海は干満の差が1メートルから最大4メートルもあるから、満潮時に海水を塩田にみちびき、干潮のあいだに乾燥させる「入浜式」塩田が発展して塩の主要産地となった。
 日本海側は干満の差が50センチ未満だから、海水を人力でくみあげて塩田に水をまく「揚浜式」となり、効率が悪いために瀬戸内の塩に負けて衰退した。
 瀬戸内・赤穂の塩が龍野の醤油づくりのひとつの条件だった。
 揖保川の水質も後押しした。麹菌の生育にとって最大の敵である鉄分がきわめてすくない軟水だった。
 京都盆地も軟水で知られる。軟水は昆布のグルタミン酸を効果的に抽出できるからだし文化が発展し、薄味で淡い色の料理がつくられた(「美食地質学」入門 和食と日本列島の素敵な関係)。だしの味を大切にする京都の需要が薄口醤油を生みだしたのだ。
 濃口も薄口も、炒った小麦の粉と蒸した大豆、種麹、塩水を混ぜて熟成させるという工程はかわらない。ただ薄口は、色をうすくするために塩分濃度が1割ほど高く、最後にまろやかさをだすために甘酒をくわえる。
 関東の醤油産地の野田(千葉県)は信州の味噌技術がもちこまれ、銚子(同)は紀州の漁民がつたえた。利根川水系の水は、カルシウムやマグネシウムが多い中硬水だから昆布だしにはむかず、そのかわり、ウナギの蒲焼きの「たれ」、そばの「ツユ」などを生み出したという(美食地質学)。

二度とつくれない巨大桶

 資料館では昔ながらの醤油づくりの道具がならんでいる。なかでも秋田杉の木でつくられた巨大な桶が目にとまった。昭和40年代まで醤油工場内で桶をつくっていたという。
 2016年に取材した和歌山・湯浅の醤油業者は江戸時代の木桶を現役でつかっていた。
「堺市に桶を守ろうと活動している桶屋さんがいて、その人に修理してもろたけど『何年もつかわからんで。漏れ出したらもうあかんな』と言われた。これだけ大きい桶は職人3人がかりでしかつくれん。そんな技術をもつ職人を3人もかかえているところはもうないな」と話していた。
 残念ながら龍野でも桶職人はもういないという。

濃口醬油をこきおろす魯山人

 ぼくは、薄口醤油は一度も買ったことがない。料理の色が多少黒くてもかまわないし、濃厚な味が好みだからだ。でも自分で料理しはじめると、醤油の黒い色がじゃまにおもえることがでてきた。
 たとえばイワシの南蛮漬け。もう少しうすい色だったらおいしく見えたはずだ。

 資料館では、北大路魯山人が薄口醤油について1933(昭和8)年にしるした文章をかかげている。
「東京にもだんだん関西料理が侵入し、江戸前料理が次第に衰えて来た原因の一つに、調味料としての薄口しょうゆを用いなかったことがあげられよう。……薄口しょうゆはものの持ち味を殺さない特徴がある。……視覚的にも薄口しょうゆは白いので、美しく、煮たものが黒くならない。……気の利いた料理にするには、必ず薄口しょうゆを用いなければならない。……吸物を作る時に、東京料理は薄口しょうゆを知らないために塩を用いる。それも一概に悪いとはいわないが、塩からい、味のないものになってしまう」
 返す刀で化学調味料を斬りすてる。
「単純な化学調味料の味で、ものそれぞれの持ち味を殺してしまうことは全く愚かなことというべきだ」
 ぼくは、味の素や鶏がらスープの素は、どの料理もおなじ味になってしまうから極力つかわない。魯山人の言葉に意を強くした。
 さらに魯山人の言葉に触発されて、はじめて薄口醤油を購入してみた。南蛮漬けをつくって、濃口料理と見た目を比較してみよう。

ふたりの妻を亡くした三木清

 童謡「赤とんぼ」を作詩した三木露風(作曲は山田耕筰)や哲学者の三木清はこの町の出身だ。「霞城館」という資料館では彼らの生涯について展示している。
「赤とんぼ」は、露風が子どものころに「ねえや」に背負われた記憶をうたったものだ。露風はやさしい詩をのこした人だけど、戦時中は「ヒットラーは頑張つてゐる」などと軍国主義に染まっていた。
 三木清は、一高に進学したが東大ではなく京大の哲学にはいり、西田幾多郎に師事した。ドイツではハイデッカーにならい、帰国後に法政大の教授になった。
 1930(昭和5)年、日本共産党への資金提供の嫌疑で執行猶予の有罪判決をうけ、法政大の仕事を失う。そのとき西田は「臨危不変」の扁額を三木に贈った。「哲学人として節を曲げないように」という励ましだった。西田もこの時期は、軍部独裁に異を唱える弟子をささえようとした。三木清は1945(昭和20)年3月、旧知の共産党員に一夜の宿をあたえたことで投獄され、終戦直後の1945年9月26日に48歳で獄死した。
 三木の「人生論ノート」は、軍国主義色が強まる1938年から41年にかけて書かれた。
 そこでは、自分自身が幸福であることが、愛する者にたいしての最上の善であり、幸福だったがゆえに愛するもののために自分を犠牲にすることができる、と説く。「自己犠牲」ばかり強いる世相へのギリギリの抵抗だった。
 彼が唱える「幸福」は、人生の目標を「幸せ」に置くことでもない。彼にとっての幸福とは、困難にたちむかうための橋頭堡である。
 彼は1936(昭和11)年、39歳のときに最初の妻を亡くした。その2年後の「人生論ノート」の連載の冒頭に、「愛する者の死ぬることが多くなるにしたがって、死の恐怖は反対に薄らいでゆく」「死は慰めとしてさえ感じられる」と書いた。3年後に再婚したが、死の前年の1944(昭和19)年にふたりめの妻も失っていた。ぼくにはとてもたえられまい。
「幸福の記憶」という橋頭堡があったがゆえに三木清は粘り腰で抵抗しつづけることができた。彼の人生は傍から見ると不幸だが、彼は生まれかわったとしても、おなじ生き方をするのではないかと、ぼくには思えた。

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