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エルサルバドル 帰還難民と元ゲリラの町づくり

 1980年代、エルサルバドル北東部のモラサン県は左翼ゲリラのファラブンド・マルチ民族解放戦線(FMLN)が強い影響力をもつ激戦地だった。1988年、学生だった私はゲリラの解放区に入りたくて、南のサンミゲルからバスに乗ったが、当然ながら検問で軍に捕まった。そこで翌89年1月、国境を越えてホンジュラス側にあるコロモンカグア難民キャンプを訪ねた。難民ならばゲリラとコンタクトをもっているはずだと思ったからだ。

難民キャンプの自治、裸足の教師養成

トイレ作り

 ホンジュラスの首都テグシガルパからバスとヒッチハイクで、国境の村コロモンカグアまで11時間かかった。国連難民高等弁務官(UNHCR)の事務所に泊めてもらって翌朝、3キロ離れたキャンプに向かった。
 軍の検問を抜け、小さな丘をまわりこむと、乾燥した斜面いっぱいに木造のバラックが現れた。約8000人が暮らしている。インタビューを申し込むと、100人ほどが集まって歓迎の音楽会がはじまった。それから、バイオリンやギター、靴、 ベッドなどを手作りする工房を案内された。

歓迎演奏ヨコ

難民キャンプ歓迎演奏の樹下04

ネフタリ (2 - 16)

   (写真上の右端の若者→中の右端は1998年、下は2017年)

 難民たちは、軍の弾圧によって1980年末から国境を越えてきた。貧しい農民で集団生活の経験はなかったが、援助食糧を分配したり、数家族にひとつずつ配られた大鍋で共同で調理するうちにグループが形成された。難民のなかにいたFMLNシンパの活動家らが指導的な役割を果たし、自治組織をつくりあげた。
 その活動はとくに教育分野で成果をあげた。キャンプ内に小学校が設けられ、成人学級が開か れ、難民自身のなかから「裸足の教師」が350人も養成された。識字率は数年で15%から9割に達した。
「松の木の下でバナナの葉をノートにして勉強したんだ」と若者たちは語っていた。

89キャンプのシクストもいた靴工房

   (靴をつくる工房。後述のシクストも少年時代に働いた)

 難民はエルサルバドル軍の弾圧の犠牲者だからFMLNを支持している。
 ホンジュラス軍は「難民が薬や食糧をFMLNに横流ししている」と主張し、キャンプ内に何度も侵入していた。
「ホンジュラス軍に囲まれて外出なんかできない」
「6割が子どものキャンプで、ゲリラを助ける余力はない」と難民側はゲリラとの関係を否定した。
 キャンプでとりわけ印象に残ったのが、バイオリンやギター、コントラバスで構成する楽団だった。軍の弾圧やキャンプでの生活、識字運動などをオリジナルの歌に仕立てていた。

集団帰還、新たな都市計画

 私が訪ねた4カ月後の1989年5月、自治組織は帰国を求めてホンジュラスやエルサルバドル政府との交渉をはじめた。ゲリラの「最終攻勢」もあって暗礁に乗り上げかけた11月、難民たちは実力行使に出た。約700人が行進し、軍の検問を突破し、国境を越えてしまった。これで交渉は進み、1990年2月に集団帰還が実現した。
 帰還先のモラサン県メアンゲーラという地域は、政府軍とFMLNの支配地域の実質的境界であるトロラ川よりわずかに北(FMLN側)にあ り、戦略的にも重要だった。
 帰還難民の村はセグンドモンテス共同体(1989年に虐殺された中米大学人権問題研究所長の名)と名づけられた。学校や図書館、サッカー場などの公共施設を囲んで住宅を配置し、養豚や養鶏、難民キャンプで覚えた家具や靴の工房も開いた。情報を発信するFM放送局も開局し、独自のバスも運行した。

「ぼくもゲリラだった」

 帰還から8年後の1998年、私はセグンドモンテス共同体を訪ねた。
 養豚・養鶏施設は消え、バスは売却し、靴や服の工房も中国製品に負けてつぶれていた。つづいているのは、ラジオ局とパン工房ぐらい。
 だが楽団は健在だった。ベルギー人女性ミアが指導し、メンバーは音楽学校の講師もつとめていた。

難民キャンプ墓01

     (難民たちの墓。十字架に銃弾の跡がある)

 バンドメンバーたちとコロモンカグアの難民キャンプ跡を訪問した。山の斜面のあちこちに、コンクリートの土台が残っている。歓迎の演奏会をしてくれた大木もあった。
 メンバーの1人は谷川の水でのどをうるおしながら、
「この谷を通って、食糧や薬品を運んだんだ。見つからないようにするのが大変だった」
 やはりゲリラを支援していた。

難民キャンプ家の跡01

 26歳のシクスト・ビヒルは「僕はミツルが来たころにはキャンプにいなかった」と言った。
 キャンプの靴工場で働いたあと政治教育を受け、13歳の時に友人15人と夜間にキャンプを脱け出し、ゲリラになった。政府軍の軍服を着て基地に潜入する特殊部隊として従軍していた1988年に戦闘中に足に被弾し、首都の教会に運ばれた。48人の同志とともにメキシコ大使館を占拠した。18歳でキューバへ渡って手術を受け、妻子をつくり、内戦終結後の1992年に帰国した。1998年当時は働きながら国立大学で会計学を学んでいた。

元ゲリラの妻は5人

パン屋 (10 - 36)

パン工房04

 2017年5月、19年ぶりにセグンドモンテス共同体を訪ねた。おばちゃんが経営するパン工房(下は1998年)は6人の若者を雇っている。

音楽演劇教室 (52 - 62)

 楽団は音楽教室も開いている。ラジオ局も健在だ。日本人の海外協力隊員の協力で15人が働く縫製工場も生まれている。大学も誘致された。共同体としてのまとまりは弱まったが、ふつうの町として栄えていた。

図書館 (8 - 21)

学校08

 (1998年にかわいかった女子高生=下=は、貫禄あるお母さん=上=)

 45歳になったシクスト・ビヒルの家を訪ねると、家の前に近所の住民が群らがっている。シクストのポンコツ車が坂を転がり、石塀にぶつかって大破したのだ。ゲリラとして生死の境をくぐり抜けてきた彼が、あわてふためいているのがおかしかった。
 彼は今、戦争でけがをした軍人・ゲリラ・市民に年金を支給する基金に勤めている。彼自身が受給者でもある。元軍人が窓口に来ると最初はお互いに緊張したという。
 夜、みんなでビールを飲みながら、
「奥さんはどうしてる?」と尋ねると、
「どの?」と言う。まわりが大笑いしはじめた。
「シクスト(6番目という意味)はこれまで5人の奥さんがいて、6人の子がいるのよ。今は罰が当たって一人暮らしよ」
「次の奥さんは、シクスタ(6番目の妻)じゃないか」と言うと、
「もう孫もいるんだ。これ以上の妻はいらないよ」
 だがその場から女性がいなくなると、
「日本語を勉強したいから、女の子を紹介してくれよ。オレも紹介するからさ」だって。
 誠実で、明るくて、頭が切れて、女癖以外はすばらしい人間なのだけど……。


  (上の写真の右端が1998年のシクスト、下は2017年)

難民キャンプ06

シクスト (2 - 3)



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