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岡倉天心と勿来の関

 いわきにむかう途中、県境の手前に「岡倉天心」という看板があって寄ってみる。

天心の娘は土葬だったのか?



 彼の絵は好みじゃないから美術館は行かず「六角堂」へ。天心の旧居を茨城大学が管理していて「天心遺跡」と名づけられている。明治の画家が「遺跡」なのか。
 海沿いの高台に旧居がある。縁側がひろびろした平屋って内と外がゆるやかにつながっていて、独特の落ち着きがかんじられる。


 ちょっとくだった海を望む岸壁の上に六角形の茶室のような小さな建物がたっている。2011年の津波で流失したが2012年に再建された。
 天心は28歳でフェノロサとともに東京美術学校(東京芸大)をつくり校長になった。インドを放浪してタゴールとも知己を得て、ボストン美術館でもながく勤めていた。


 天心は東京に葬られたが、ここにも分骨された墓がある。斜面をのぼって訪ねると、土葬のような土まんじゅうだ。ちょっと上にある、昭和30年に亡くなった娘の高麗子の墓も土まんじゅうだ。これはたぶん土葬だったのだろう。鉄道マンだった高麗子の夫は1945年に没している。

「来るな」異郷を隔てる関


 10分ほど車を走らせると県境の勿来の関だ。1年ほど前に来ているのだが、「くるなかれ」という名前だけでひかれる。なぜ「来るな」なのか。
 勿来と呼ばれるようになったのは平安中期。蝦夷の南下を食い止めるため、という説と、平安初期にいわき地方の駅路(官道)廃止で通行止めになり、それを監視する関だったという説もあるらしい。

 「関」とか「境」にはなぜかひかれる。国境も好きだし、村の境に安置された道祖神や庚申堂にもひきつけられる。関や村境は世界がかわる場所であり、価値が転じる場でもある。
 かつて日本海が「表日本」だったころ、大阪から日本海をまわって仙台までは船が行き来し、逆に江戸をまわって茨城までは船が来ていた。海が荒れて船が行き来できない福島沖は「最後の辺境」だったという。そんな時代の記憶も、勿来の関の名を高めたのかもしれない。

 源義家が奥州の鎮圧した帰りにつくった歌の歌碑がある。

 吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山桜かな

(「来るな」という名の勿来の関なのだから、吹く風も来ないでくれと思うのに、道をふさぐほどに山桜の花が散っている)

 義家が英雄なのはコチラの論理であり、奥州や蝦夷から見たら侵略者でしかない。義家をなんの疑いもなく「英雄」とまつりあげてしまうことで勿来の関は「境」の意味を失った。
 文学館(330円)には、勿来の関にまつわる短歌とそれにまつわる映像があるだけ。ふたつの世界の「境」を意識するならば、南側の貴族や武士の歌だけでなく、北側にあった文化や歴史も紹介してほしかった。

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