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鶴岡 レトロな町に徳川の名将と明治の独裁県令の影

 日本海をみたくて福島から3時間高速道路をたどり、山形県鶴岡市に泊まることにした。この町にはとくに目的はなかった。

祭神・酒井忠次の評判

 まずは市の中心にある鶴ケ岡城に足をはこんだ。鎌倉時代につくられ、上杉や最上義光が支配した。最上氏は1622年にお家騒動を理由に領地没収となり、徳川四天王筆頭の酒井忠次の孫・酒井忠勝が入国した。
 城跡の中心にある荘内神社の祭神は酒井忠次だ。家康よりも15歳年長で、今川家での人質時代も家康につきそった有能な武将だった。だが、家康の妻の築山殿と長男の信康が信長の怒りをかって殺されたとき、酒井は信長にたいして、2人の「悪い噂」を否定しなかったとされている。ふたりの謀殺は「信長の怒り」説のほか「家康が信康をきらった」という説もあるからかならずしも酒井が悪いとは言えないのだけど。
 奈良の大和郡山の城跡にある「柳沢神社」は、徳川綱吉の側用人から甲府藩主に抜擢され、大老にまで出世した柳沢吉保をまつっていた。吉保は、水戸黄門でも赤穂浪士でも、汚職とおべんちゃらの悪役なのだけど、埼玉の三富新田の開発など善政を敷いたという評価もある。大和郡山や甲府では「名君」とされてきた。(〓参照)
 権力者は、立場によって180度評価がかわるから、武将をまつった神社にはあまりありがたさをかんじない。神社の目の前にある藤沢周平記念館のほうが興味をおぼえた。

レトロ建築の裏に県令の権威主義

 鶴岡の町はほとんどビルがなく、低層の建物だらけだから空が広くて心地よい。
 駅からまっすぐにのびる通りはシャッターだらけだが、それと交差する山王通り周辺には、大正や昭和の洋館風の商店が点在している。

 鶴岡カトリック教会天主堂は1903(明治36)年築だ。隣には「マリア幼稚園」が併設されている。朱のドームをもつ大宝館は、大正天皇即位を記念して1915年にたてられた。

 そして城跡に隣接する「致道博物館」(入場料は800円)が鶴岡で最大のみどころだ。江戸・明治・大正の名建築が移築されている。

 旧鶴岡警察署庁舎は、初代酒田県令の三島通庸の命令で1884年につくられた。取調室は、刑事が高い壇上のいすにすわり、容疑者は地面にしいたむしろに正座する。江戸時代の「おしらす」を当時の警察はうけついでいたことがわかる。

 旧西田川郡役所も三島が命じて1881年に完成した。高さは約20メートル。赤瓦と白壁で、建物の上部には時計台があり豪華な装飾がほどこされている。藩にかわる「県」の権威をしめすためだったのだろう。
 三島は酒田のあと、栃木や福島の県令をつとめた。栃木では加波山事件をおこし、自由党員を弾圧し、住民に負担を強いて大規模土木工事をすすめて「土木県令」とよばれた。田中正造の政敵だった。福島県令時代も「福島事件」で自由党員を弾圧した。のちに警視総監となり、自由民権運動をつぶすため保安条例をつくった。
 郡役所や警察署の立派な建物は三島の権威主義をしめしているようで興味深かった。
「庄内藩主御隠殿」は江戸中屋敷の一部を北前船ではこんで移築した。明治以降は「酒井侯爵邸」となった。

 旧渋谷家住宅という4層構造の農家建築は兜造りという独特の形をしている。2階は養蚕や農作業の準備につかわれていた。
 民具の蔵には、山や川、農作業、料理などでつかわれたさまざまな民具のほか、北前船についての展示もあった。


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