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「ゲリラの首都」の自立の歩みーエルサルバドル

 かつて「ゲリラの首都」と呼ばれたモラサン県ペルキン市には今、ファラブンド・マルチ民族解放戦線(FMLN)の元ゲリラがつくった「革命博物館」や、難民を支援してきた米国人が経営するペルキン・レンカという快適なホテルがある。内戦の歴史に興味をもつ外国人観光客が訪れ、独特の体験旅行の拠点になっている。

虐殺と破壊の跡

ペルキン (8 - 26)

 10分も歩けば反対側に抜けてしまう標高1200メートルの小さな町は、農民の生活を描いた壁画が美しい。1980年代は政府軍の空爆でがれきだらけだったが、破壊をまぬがれた壁に、農民の暮らしや革命の希望が描かれていた。

壁画子どもペルキン (8 - 12)

91年に軍が一時占拠した際に破壊され、内戦終結後に赴任した保守派の聖職者によって教会の壁画も消されたが、アルゼンチン人芸術家の指導で2003年から復活させてきた。

mozoteゲリラ音楽家 (16 - 47)

 ペルキンの10キロ南東にあるモソテという集落は、1981年12月の虐殺事件で知られている。米軍特殊部隊の指導で創設された対ゲリラ戦部隊アトラカトル大隊が、老人から赤ん坊まで住民約千人を皆殺しにした。たった一人生き残った女性の証言をFMLNの「ラジオ・ベンセレーモス」が放送し、それを聴いたアメリカ人ジャーナリストが現地を訪ねて世界に伝え、政府軍の残虐さを象徴する事件となった。今、現場の教会は建て替えられ、記念碑がつくられている。

mozoteゲリラ音楽家 (32 - 47)

 案内してくれた語り部のセバスチャン・トロゴスは元ゲリラで、ミュージシャンでもある。内戦中から現在も歌をうたいつづけている。

自動小銃は北朝鮮から

 ペルキンのまちにある「革命博物館」では、FMLNの元ゲリラが1992年の和平合意までの歴史を語ってくれる。
 ゲリラの組織活動は70年代にはじまり、オスカル・ロメロ大司教が暗殺された80年から本格的に蜂起した。
 主要な武器はFALという自動小銃だった。79年のニカラグア革命前、ベネズエラがニカラグアのサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)にFALを供給した。サンディニスタ革命が成功すると、ニカラグアは旧ソ連のAK自動小銃を導入し、FALがエルサルバドルのゲリラに流れてきた。
 その後、エルサルバドル政府軍が米国製のM16自動小銃を採用すると、FMLNは、同じ口径の弾丸を使うAR15をベトナムから導入した。
 89年の「最終攻勢」の直前、武器はほとんど枯渇していた。そこで司令官を北朝鮮に派遣し、AK自動小銃を大量に買いつけた。北朝鮮からニカラグアに運び、他の荷物と混ぜて偽装し、コスタリカを経由して、エルサルバドルのアカフトラ港に水揚げした。

モソテ虐殺の指揮官を爆殺

 84年には、モソテ虐殺を指揮したアトラカトル大隊のドミンゴ・モンテロサ大佐に対してわなを張った。
 当時、政府軍の攻略目標のひとつがラジオ・ベンセレーモスだった。ホアテカというムラの山中にラジオ送信機や背嚢、小銃などを散乱させ、ニワトリの血をまいた。送信機にはTNT火薬を詰めた。そして「RV(ラジオベンセレーモス)に問題発生」と発信した。軍は「ラジオ局奪取」を記者発表する段取りをつけ、送信機などをヘリコプターに積んで離陸した。その直後、ヘリは爆発し、モンテロサ大佐も死亡した。ヘリの残骸は博物館に展示されている。

革命博物館とニカラグア人館長 (12 - 18)

 武器の経路や裏話についてやけにくわしいと思ったら、館長のローランド・カセレス(57歳)はニカラグア人で、15歳からサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)のゲリラに参加し、革命後の1980年にエルサルバドルに来て軍事教練の教官をつとめてきた。モラサン県のゲリラの生みの親のような存在だった。
「大量の写真や文書が残っているが、ほとんどは公開していない。どこに保管しているかも言えない。FMLN内部の問題も含めて、戦争の傷が癒えるにはまだまだ長い時間がかかるんだよ」と、最後にローランドは言った。
 今も、モンテロサのヘリコプターの残骸前で最敬礼する元軍人がいる。残骸前で泣いていた女性は「あなたたちには申し訳ないけど、モンテロサは私の父なの」と語ったという。

ゲリラ解放区の自治政府

 なぜ、モラサン県の人々はゲリラを支援し、自らも参加したのだろう。
マリオ・クラーロ(51)はホンジュラスとの国境に近いエル・ロサリオという村で生まれた。トウモロコシとインゲン豆をつくる貧しい農家だった。
 1970年ごろ、ミゲル・ベントゥーラという神父がモラサン県北部に赴任した。
 聖書を貧しい庶民の目で読み解き、公正で人権が尊重される社会こそが神が求める社会だと説く「解放の神学」を広め、共同体を組織していった。
 マリオの集落の約20家族はみな参加し、その後、ゲリラと協力するようになる。マリオは11歳のころからゲリラの各グループ間の手紙を靴底に隠して運んだり、軍の動きを見張ったりした。
 1979年7月、父はほかの青年5人とともに軍に捕まり、拷問された。彼らの釈放を求めて、東部の主要都市サンミゲルの教会を200人が占拠した。1980年7月にはマリオも参加して首都のコスタリカ大使館を占拠。コスタリカ政府と交渉し、父は母や弟妹とともにコスタリカに脱出した。マリオは1984年にコスタリカに出国するまでゲリラ活動をつづけた。

貯蓄を学ぶグループ

 ゲリラが支配するモラサン北部には1988年、実質的な自治政府がつくられた。教育や衛生、警察や司法といった自治体の機能を担った。同時に、ゲリラへの物資の補給も担当した。
 1992年の和平合意後はその機能をじょじょに自治体や政府に委譲し、1996年からはPADECEMOSM(モラサン・サンミゲル村落開発連合)として、自治体のやらない、地域開発や環境問題、青少年問題などにとりくんでいる。
 外国の援助なしに自立するため、2006年にはマイクロクレジット(少額融資)事業をはじめ、今は独自に事業を展開できるようになった。
 14年からは貯蓄グループを組織しはじめた。貧しい農民は貯金をして貯まったカネをなにかに投資するという経験がない。カネを使う目標を定め、定期的に貯金するグループを創設した。今はそうして貯めたタンス預金を金融機関に預ける運動もはじめている。マイクロクレジットの機関に貯金を集めることで、地域経済の発展に生かせるからだ。

ペルキン (16 - 19)

個人の悩み支える「生活改善」

 マリオは2015年、国際協力機構(JICA)の招きで日本を訪れ、第二次大戦後の日本の農村で広まった「生活改善運動」の手法を学んだ。
 日本の生活改善運動は、外部の援助や制度に頼るのではなく、女性たちがサークルを形成して、衛生や台所環境、栄養などの課題をみずから掘り起こし、身近なところから解決をはかってきた。農村の封建的な風土を改善し、女性が発言力を増すことにもつながった。この運動で育った女性たちが、現在の一村一品運動や直売所づくりなどで活躍している例も多い。
 マリオは日本の生活改善の現場を見て、自ら実践してきた解放の神学や、その活動をコミュニティのレベルで支えたブラジルの教育社会学者パウロ・フレイレの思想とそっくりだと思った。
 フレイレは、識字教育を通して、自分たちの境遇を考え、暮らしの課題を浮き彫りにして、それを改善する、という手法を編み出した。「エンパワーメント」という言葉は、彼の思想と実践から生みだされた。
 一方マリオは、日本の生活改善を通して、自分たちに足りないものも見えたという。
「これまで一人ひとりのメンバーを経済活動の主体としてとらえ、技術を広め、共同体や家族の経済を発展させようとつとめてきた。でも、ある女性が夫から暴力を受けていたら、商売だってうまくいかない。経済活動の主体としてではなく、ひとりの人間、ひとりの女性としてかかわる必要があると気づかされました」
 いま、22の貯蓄グループで生活改善の手法を導入し、「家族はうまくいってる?」と問いかけ、個々人の悩みも語りあうようにしているという。

協同組合の店 (2 - 5)


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