社会的制裁に熱狂する人たちの建前と本音――ピエール瀧の逮捕をめぐって――

社会的制裁としての自主規制

先週、コカイン使用容疑でピエール瀧が逮捕された。法律を犯したとするなら――報道では、容疑を認めているようだ――、当該の法律の定めるところに従ってしかるべき処罰を受けねばならない、ということだ。これに多言を要しはしない。本来ならそれで終わりの話だ。

彼は有名人だから、社会に与える影響を考えればそうは問屋が卸さない、という人もいるだろう。だから、マスコミは、彼の取り調べや裁判の様子、その判決を報道する。そして、罪を犯した人間が法律によってどのようなペナルティを課せられることになるのかを見ることで一般人である私たちは自らを律し、また犯罪者は罰をとおして規律化される。こうして、社会秩序を維持されるはずだ。それで十分ではないか。

しかし、私たちは社会では、そうではないようだ。だから、社会的な制裁がこれほどまでに声高に主張される。今回の件で言えば、社会的制裁を求める声に押されて、事なかれ主義のレコード会社やテレビ局、映画配給会社が行う自主規制である。ピエール瀧が関係する音楽や映像は当面、流通させないということだ。もちろん、社会的制裁に熱心な人びとにも理由はある。薬物犯罪は暴力団といった反社会的勢力との繋がりがあるのだから、国による制裁以上の制裁、すなわち社会からの自発的な制裁が必要である。自主規制することで、反社会的勢力を認めない意思を表明できるのだ。こうした理由を後ろ盾にして、社会的制裁を求める声は、自主規制に疑念を持つ人たちにまでバッシングの矛先を向ける。

相変わらずの光景である。未だに昭和の時代が続いているかのような錯覚に陥る。メディアを媒介にして助長される、社会的制裁を求める人たちの熱狂。特に、著名人の不倫問題で顕著となるこの熱狂は何に由来するのか。

社会的制裁を求める声と「傷ついた愛着」

私たちの暮らす自由で民主的な社会の大原則の一つは、法と道徳との峻別である。「人はこうあるべきだ」という道徳は随意に選択された個人の行為の指針であり、それは各人によって異なりうる。これに対して法は、民主的なプロセスに従って作られ、強制力をもって個々人の間の関係性を公共的に規制する。それは、道徳を異にする人びとが共に暮らしていくために、してよいこととしてはならないことを指示する共同の決まりだともいえよう。もちろん、法も道徳もそれぞれの仕方で社会の秩序を維持するために存在する。また、法は社会的に共有された道徳と密接なつながりを持つべきである。が、それらは別物であって混同してはならない。そして、この法の範囲内で、各人に固有の道徳や価値観にもとづいた人生が自由に追求される。

犯罪によって攪乱された社会秩序を回復するには、法的制裁では不十分だとして――この認識の裏には、法に対する人びとの信頼を低下させる日本社会の現状があることを指摘することは重要だ――、社会的制裁を求める人びとがよって立つ根拠は、法ではなく、各人の道徳である。ここから、社会的制裁の根底には道徳(観)があるといえる。それはしばしば義憤という装いをとる。別段、それが悪いと言っているわけではない。なぜなら、法だけで社会の秩序を維持できないのは当たり前の話であって、道徳がなければ、法に従う悪人たちでこの社会は溢れてしまうことになるからだ。

だが、その一方で、社会秩序の維持という大義を掲げ、むやみやたらに社会的制裁を求める声には注意が必要だ。大義を隠れ蓑にしてそこにはルサンチマンに根ざす復讐心が紛れ込んでいるかもしれない。

例えばツイッター。そこは義憤を装って放たれる誹謗中傷の嵐だ。罪を犯した者を有無も言わせずバッシングすることで、罪を犯したわけでもないのに日々の生活の中で訳もなく傷つけられた自尊心の惨めさや憤りを埋め合わせようとしているかのようだ。それが、今も昔も変わらない心的な防衛機能であることは間違いない。不当な仕打ちによって傷ついた自我の痛みを正当な理由で追いつめられる他者の苦しみによって帳消しにする。そう、カタルシス。私たちの脆弱な自我はそうでもしないとみるみる崩壊してしまうかのようだ。

このことについて、ニーチェウエンディ・ブラウンを持ち出し、話を長くする必要はないだろう。それは私たちの日常生活ではありふれた光景なのだ。

道徳主義化する社会はなぜ問題なのか

社会的制裁を求める声が高まり続ける社会は、道徳主義化する社会といえる。なぜなら、社会的制裁の根拠は各人の道徳(観)だからだ。社会的制裁を求める声が高まれば高まるほど、道徳的言説で日々の生活はあふれかえることになる。

道徳主義化し社会的制裁が盛んな社会が少なからぬ人たちにとって息苦しく、生きにくい社会であることは間違いない。しかし、この社会の問題点はそれだけではない。ここでは、冒頭で上げた違法薬物の使用を例にして、相互に関連する2つの問題点を挙げてみよう。

一つは効果の問題だ。社会の秩序の維持が社会的制裁の大義なのだが、社会的制裁はその秩序を乱す犯罪を抑止するにはそれほど役に立たない。見せしめ的な効果はないとはいえないが、社会的制裁は犯罪を生み出す原因とは無関係だからである。今回のピエール瀧の例でいえば、テレビ局が自主規制しようが、芸能界の薬物汚染の浄化や、ましてや一般人の薬物使用の予防にならないだろう。アルコールにせよ、コカインにせよ、あるいはギャンブル、セックス、DVなど、どれほどバッシングをして追い詰めようが、≪依存≫という心理的原因に結び付く取り組みでない限り、それらに頼らざるをえない人びとが引き起こす犯罪を抑止することは難しい。

もう一つの問題は、社会的制裁は必要な解決策に対する社会全体の理解や取り組みを妨げる可能性があることだ。今回の件に関していえば、自主規制といった社会的制裁とそれをめぐる大騒動へと社会の関心が向けられれば向けられるほど、国や民間の団体による薬物依存者の治療の取り組みの現状や≪依存≫を生み出すメカニズム、誰もが陥る可能性のあるその恐ろしさといった、社会で共有されるべき情報への焦点化がおざなりにならざるをえない。

社会が道徳主義化する現代的条件

バッシングしたり、自主規制したりしても、犯罪が抑止されるわけではない、そんなことは誰でもわかっていることだと言う人がいるかもしれない。おそらく、そうなのだろう。しかし、社会的制裁に問題があることを知りながらそれを盛んに求めるような道徳主義化した社会とは、結局のところ、傷つけられた自我の復讐心で溢れかえった社会でしかないということになる。

下劣な社会だ。ただ、現在の社会だけが復讐心に覆われているというわけではない。先にふれたように、昭和の時代でも自主規制は盛んに行われたし、マスメディアを通して行われる犯罪者のバッシングは凄まじかった。

とすれば、まず私たちが考えるべきは、現代の社会が道徳主義化する条件とは何なのか、という問いであろう。拙著『平成の正体』で論じたように、日本型工業化社会の確立した昭和の時代には、企業や学校あるいは家庭で強要された過酷な規律化がその時代のルサンチマンを生み出す条件だったとすれば、現代はどうか。この問いに対しては、『平成の正体』で論じた、平成の時代における新自由主義の統治について再検討する必要があるように思われる。生活を守る様々なセイフティネットが崩壊し格差が拡大する社会で「自由であれ」という命令と「自己責任」という殺し文句に晒された私たちの自我はどのように傷つけられてきたのか。

こうした問いかけすることなく、ルサンチマンを抱え復讐心に駆られた人たちに、論理で攻め立てたり、寛容といった徳目を唱えたりすることは無意味であるだけでなく、逆効果であることだけは間違いない。

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