基幹統計の不正・隠蔽は、なぜそんなにヤバい問題なのか?

まず考えてみるべきことは‥‥
想定外の事態に今の日本社会は直面しているというべきか、それとも想定内の当然の帰結というべきか。その事態とは厚生労働省および総務省で明らかとなった、統計の不正・隠蔽問題である。

「毎月勤労統計」や「賃金構造基本統計」(以上、厚生労働省)、「小売物価統計」(総務省)など基幹統計で不正が発覚し、またそれらの中には意図的に隠蔽したものもあるのではないかという疑惑が出てきている。また、「毎月勤労統計」の不正が発覚する中で、野党が2018年度1月~11月の実質賃金の再集計したところ、その伸び率はほとんどの月でマイナスになることが示され、厚生労働省の担当者もこの結果を認めるという事態になった。これを受けて、今回も官僚による安倍政権への忖度があったのではないか、すなわち、安倍政権の経済政策に都合の良いデータが官僚によって捏造されたのではないかという憶測が生じ、通常国会でも野党による追及が始まっている。

いったい事実はどうだったのか、基幹統計の不正が生じたそもそもの原因は何なのか、疑問は尽きないわけだが、内部調査や国会での追及をとおして、ある程度この問題の全貌が明らかになるまで待つしかない。

ということなので、以下では、なぜ、この不正がそんなにヤバい問題なのか、ということ確認しておこうと思う。すぐに陳謝することになったが、基幹統計の不正に関して「さほど大きな問題ではない」と放言してしまう自民党の政治家がいるくらいなのだから、まずここから考えてみる必要がありそうだ。

統計と統治の合理性
この問題の深刻さを二つの観点から考えてみたい。一つは、合理的な統治であり、もう一つは民主的な統治という観点だ。便宜的にここでの統治の意味を、国家という枠内で集合して暮らす人びとの間に安定した秩序を作り出し維持するための構想や制度、実践の総体として定義しておこう。

まず前者の観点に関して、統計が近代国家における統治の土台であることを思い起こす必要がある。近代国家における統治が、それ以前の統治と明らかに違うのは、神の信託でも、賢者の智恵でも、支配者のカリスマでも、歴史の伝承でもなく、統計にもとづいているからだといえる。特に18世紀以降、ヨーロッパでは、「事物の自然」に即した統治、わかり易くいえば、合理的な統治がいかにして可能かということがまず政治経済学において、その後は社会学を中心にした多様な学問分野において問われることになる。そもそもこうした問いが立てられた理由は、国家が国力を増大させ、他国との競争に打ち勝ち生き残るには、合理的な統治が不可欠だと考えられたことにある。

そして、その問いに対する一つの答えが、雑多で全体像がよくわからない社会に数的な規則性や不規則性――たとえば、出生率や死亡率、平均身長にはじまり、教育水準と所得格差の関連性など――があるように見せてくれる統計であり、統計のデータを活用して社会に介入する統治であった。それだけではない。この合理的な統計は統治ならびその具体的な政策に数学的な明証性(evidentness)を付与する。統治する者たちは、この明証性にもとづいて、自分たちの政策の必要性や正しさを主張することができたのであり、また統治される者たちに対してそうした政策に従うことを要求することができたのである。いずれにせよ、近代以降、政策を立案し執行する政治家や官僚たちにとっても、それに従う市民にとっても、この合理性が「良き統治」の大前提だったわけだ。

このように考えれば、基幹統計の不正・隠蔽問題から分かることは、昨今の日本は合理的に統治されていなかった、ということだ。さらにいえば、国家が国際競争に打ち勝ち存続するのに不可欠なのが合理的な統治だとするなら、それが意味するところは、国家の自殺行為だ、ということだ。アナーキストでないかぎり、このことが「大きな問題ではない」といえるはずがない。

統計と民主主義
しかし、それだけではないのだ。基幹統計の不正は民主主義と深く関わる。というのは、現代における統治の問題は、国家がどう生き残り、発展するかということだけではなく、その統治が民主主義の理念と仕組みに即して行われるのかということだからだ。すなわち、現代における統治とは、たんなる合理的な統治であるだけなく、民主的な統治でなければならない。では、この民主的統治はどのように行われるのか。ここでは中心となる二つのポイントに注目しておこう。

一つは、統治は国民の意思にもとづいて行われなければならないという、国民主権の理念である。それによれば、現行の代表制度においては主権者である国民の意思は、選挙によって選出された代表者たちが熟議と多数決によって制定する法律という形をとって現れる。この法律にもとづいて、政府は統治を行うことになる。要するに、民主主義の理念としては、国民がどのように自分たちが統治されるか意思決定を行い、政府はそれに従わねばならない。

もう一つは、統治を直接担う政府が国民によって選挙された代表者(政治家)によってコントロールされるという、行政の民主的統制という仕組みだ。議院内閣制をとっている日本の場合、行政のトップである内閣総理大臣は選挙された国会議員でなければならず、各省庁を従える国務大臣もその過半数が国会議員でなければならない。また、第一のポイントにあるように、民主的国家における統治は、国民の意思としての法律にもとづいて行われるのであるから、そもそも法律によっても統制されていることになる。いずれにしても、行政の民主的統制は、国民による自治という民主主義の理念の実現のために不可欠な仕組みなのだ。

こうして、現行の代表制度では民主的統治の根幹に選挙があることが分かる。なぜなら、立法をとおして意思決定を行う国会も、多数派政党から構成される政府もすべて選挙によって形成されるからである。

では、選挙において私たちは何を基準に投票するのか。これが問題だ。政党政治の下で運営される現在の代表制度では、有権者は自分たちの利害関心や意見に適合的な政策を掲げる政党に投票すると想定されている。これが事実かどうかは別にして、理念としてはそうだ。したがって、民主的統治の根幹にある選挙の要諦は政策だということになるが、各政党の政策が作られる際の根拠となるがまさに統計データに他ならない。その大部分は、当然、政府が公表する各種の基幹統計調査によって得られたものである。もしその統計データが偽りのものであるとするなら、私たちは偽りの根拠にもとづいて作られた政策によって政党を選択させられることになる。つまり、私たちは偽りの投票を、偽りの選挙をすることになるわけだ。

また、現在の選挙は、政権担当政党の仕事ぶりを評価し、賞罰を与えるという性格が強い。賞とは、政権担当政党に対して再度、政権の座に与えることを意味し、罰とは、下野させることを意味する。ここでも、統計が重要なのは明らかだ。例えば、次の参議院選挙で安倍政権および自民党を評価する際、偽りの統計データによってその仕事ぶりが実態以上に良く見せかけられたとするなら――これがいま問題になっていることでもあるが――、私たちは、適切に賞罰を与えるべく投票することができなくなる。

いずれのケースからも分かることは、統計の不正によって、代表制民主主義の生命線である選挙が適切に機能しなくなるということだ。そして、その結果は、民主的な統治が不可能になるということに他ならない。

政治不信、ここに極まる
安倍首相が以前アメリカの議会でしたように、日本が民主的国家を自認するのならば、これほど危機があるだろうか。このままでは、国民からの、そして諸外国からのこの国の政治に対する信頼は、地に落ちて当然だろう。

ともかく、事の重大性からして、基幹統計の不正・隠蔽問題を「大きな問題ではない」と考えている政治家や、この問題の全貌の解明や原因の究明に積極的でない政府は、今すぐ辞めていただく必要がある。



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