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四国の風⑤(過去ブログ記事転載)(2005年12月)

今から25年ほど前。19歳の夏と20歳の夏の2回に分けて、四国八十八箇所を歩いて回りました。43日間。自分の人生の基点になったとも言える一人旅。過去のブログ記事にも残っていますが、こちらにも念のため、お遍路を回りながらつけていた日記を、アーカイブとして残しておこうと思います。誤字脱字もありますがそのまま掲載しておこうと思います。


「1999年3月18日」の日記

ビジネスホテルのため、朝食抜きで宿を発つ。六時三十分である。
足の調子もまったく異常なし。疲れもそれほどなくて好調である。
肩の重さも感じず、この調子で良くと本当にあとわずかのような気がしてきて、この旅をもう少し長くやっていたいという郷愁の念に近いものを感じるようになってきていた。
一面にはもはや山の脅威は感じないような人工的な建造物が立ち並び、逆にその人工物に威圧感を感じるようになってきている。本来、人工物は自然を元にして作られているのだから、その構造は自然との調和が絶対条件のはずである。弱肉強食ということなのであろうか、人はいつか自然の力を軽視しすぎている。自然は恐ろしいし、同時に感動を与えてくれる要素をもっている。自然とは人間を超越するものであり、すでにそこに存在するものであるし、運命である。

宿を出ようとすると、昨日のあの僧の方が一介の部屋から出てこられた。
同じ宿にとまっていたようだ。また同行させていただくことになった。
その方は弘法太師が生まれたという海岸寺に行くとのことで途中まで一緒にいくことになった。喫茶店に入る。その方は以前はホストをやっていたということであり、10年ほど前に遊びから手を引き、仏門に入ってこられたということである。なるほど、普通の僧の方にくらべて頭が非常に柔らかいし、仏教崇高者でもない。相対的に見て仏教をその生きる手本のひとつとして採られているようである。喫茶店でモーニングを頂いてそこを出て、その方とは別れる。名残惜しく感じる。

この旅で多くの方と出会ったのであるが、多くの方はすぐに別れてもう一生会えなくなってしまうのである。一期一会という言葉が身にしみて感じてくる。

道路をずっとまっすぐに行き少し入っていったところに第七十一番の弥谷寺の上り口があった。そこまでの道であの雲辺寺の麓の民宿で宿をともにした方とも出会った。足のほうはやはり相当痛いようだ。弥谷寺までの道は自分としてはそれほどのものを感じなかったのであるが、その方にとってみれば相当なことであったに違いない。その方の調子にあわせてゆっくりと歩いているとこちらの調子もおかしくなってきた。少し疲れがたまってきた。
その方は先に行ってくれるように頼まれたのでそうすることにする。

平坦な道に出て、そこに大きな駐車場。そこを更に登ると小さな茶店がある。
そこで荷物を置かせてもらうことにして最小限の荷物を手にして登っていく。
軽いと身のこなしもよくなり、気分良く順調にかけあがれる。
岩を利用した階段を登っていき、朱塗りの階段がそれに続く。街を一望できる険阻なところに本堂がおかれてある。その中に納経所があり、早速済ませる。少し休憩。再び足を進めることにする。今日の予定は、結構過密なのでこんな出だしのところで余韻に浸っている暇はなかった。

次の寺までは1時間程歩いたらつく。遍路道を越えていき高速道路の下をとおり、しばらく歩くと小さな岡の上に寺があるのに気づく。それが第七十三番出釈迦寺である。

丘を登りそこにたどり着くと、寺の方は丁重に持てなしてくださった。
コーヒー1缶を頂き、そこで飲む。何か心がすごく落ち着く空間である。
これまでになく心が安らぎゆっくりすることができる。
周りの風景画そのようにさえるのか、意やこの空気がそのようにしていくのである。気付けばそこは弘法大師が生まれて育った場所の近くということではないか。どこかわが祖国滋賀県に似ている風景である。
最澄は比叡山に延暦寺を開いたのであるが、修験道を試みる人たちは同じようなところで育ち、同じような景色のところに寺を建立するものなのであろうか。丘を下り、すぐに第七十二番曼荼羅寺があった。

ほんとに目と鼻の先だ。この寺は人間が作ったあとが顕著に見れて心に響くものは感じなかったが、なんともいえないこの地域の景観と空気に助けられている感がある。人工的なその建物と案内板。また先を急ぐ。

第七十四番甲山寺。この寺は大師が育った付近らしい。
そのためか、明るい印象を受ける。子どもの頃、遊んだ風景を想像できるような光景である。寺の中に入る。寺の中も簡素なつくりであり、何もないという感じなのであるがそれがかえって厚みを増して付近の景観とマッチしてそこだけがどっしりと安心感に満ちているのである。この次の寺は遂にあの善通寺である。

第七十五番善通寺。
善通寺派の総本山である。その寺の大きさと雄大さは四国随一といっても過言ではない。迫りくるその異様な光景。計算されつくしたかのような中央に位置している五重塔。だが街の景観と隔離しているかといえばまったくそんなことはない。かえって一体化しているような感じである。
一体化というよりか、この街すべてが善通寺の一部であるかのようなそんな錯覚を受ける。まsに、善通寺市でありこの町が寺前町になっている。
ここにきて、あの出釈迦寺以来、感じてきていたあの不思議な感覚はなんだったのかわかった。この寺でその予感じみた感覚は完結することになる。とにかく、この寺は大きい。大きいからといってその分、質が落ちているかといったらそうでもない。よくよく考えてみたら京都にはこれくらいの寺は無数にあるのに、この善通寺にてこれほどの感動を感じるのはなぜなのであろうか。遍路をしている人にとってこの寺はやさしく迎えてくれる、そんなところであるからであろう。

これ以後、八十八番まで僅かである。
地に足のついたこの寺は旅人を受け入れ、一時の休息を与えてくれて再び旅人を送り出していく。何百年もそんなことが繰り返されてきたのであろう。
通路の脇には露店が何店も建ち並んでいる。石手寺の比ではない。
その奥に本堂があり、国宝の仏壇などが安置されている。その横に納経所。納経を済ませて、この寺を後にする。なぜか町全体が華やかで喧騒の中にいるのにもかかわらずそんな気持ちを微塵も感じさせないのである。

そこからおよそ1時間ほどで第七十六番金倉寺までいける。
そこまでは道路の横の狭い道を通っていくので大変車に注意しながら進んでいった。何百メートルも先なのにその金倉寺の山門が見える。
一直線上に何者もそんざいしないでそこにそれはある。
金倉寺の中に入れば、この寺も善通寺に劣らず、広い寺である。
しかしこの寺はになにか荒涼としており、善通寺のように洗練されていない。
どこかで見たあの国分寺のようである。建物もなくその広い境内にあるのは本堂をはじめ大師堂など最小限の建物である。納経を終わらせて少し休むことにした。この寺に入った時からずっと後ろをついてきた猫がすりよってきた。その猫と遊ぶこと10分ほど。笠をおいておいたのであるが、その笠の紐に首を潜らせて、ちょうど猫が笠をかぶったような形になった。
非常にこっけいであった。

次の寺、第七十七番道隆寺で今日は止めることにする。そこまではとりあえず行かないといけないのでここからおよそ4キロの地点にあるそこを目指す。

時間は今四時くらいであったので少し急がなければいけない。
ゆったりとした光景が周囲を埋める。道隆寺までもずっと直線である。
多度津町に入ってから突然に周りの景色が変わる。善通寺市までとはまったく異なった感じである。景観の豊かさは姿を消してあの不思議な雰囲気も消え去り、残ったのはなんともいえないすごい不安感である。
それは人家が少なくなってきている事から起こる不安感であろうか。
いやそうではないだろう。先に新たなハードルが待ち受けているとき本能が自然にそれを察知してそれに備えるような感覚に近い。
まあ、いい。思い過ごしであろう。

道隆寺に着く。寺はどこか寂寥感を伴っておりここまでくる時に感じた気持ちを具現化しているかのような寺である。なだらかな感触は感じない寺であり、警鐘を鳴らしているかのような重苦しさを感じる。納経所で飲み物の接待を頂く。足もそろそろ急いだためか痛くなってきていたのでおよそ3キロほど先の七福旅館で宿を取る。

この旅館は旅館という名にふさわしい客室を持っている。
仲居の人もいて、ちゃんと布団なども敷いてくれるし、骨董品が目に付く。
久しぶりにいい宿を取れたと思う。風呂は少し熱すぎたような感じがするのであるが。


◇筆者プロフィール
藤井哲也(ふじい・てつや)
株式会社パブリックX 代表取締役/SOCIALX.inc 共同創業者
1978年10月生まれ、滋賀県出身の45歳。2003年に若年者就業支援に取り組む会社を設立。2011年に政治行政領域に活動の幅を広げ、地方議員として地域課題・社会課題に取り組む。2020年に京都でパブリック Xを第二創業。2021年に東京でSOCIALXを共同創業。吉備国際大学で公共政策も教える。
京都大学公共政策大学院修了。日本労務学会所属。議会マニフェスト大賞グランプリ受賞。グッドデザイン賞受賞。著書いくつか。
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