見出し画像

四国の風④(過去ブログ記事転載)(2005年12月)

今から25年ほど前。19歳の夏と20歳の夏の2回に分けて、四国八十八箇所を歩いて回りました。43日間。自分の人生の基点になったとも言える一人旅。過去のブログ記事にも残っていますが、こちらにも念のため、お遍路を回りながらつけていた日記を、アーカイブとして残しておこうと思います。誤字脱字もありますがそのまま掲載しておこうと思います。


「1999年3月17日」の日記

標高930メートルの山が眼前に迫っている。
第六十六番遍路転がし雲辺寺。最後の関寺である。

朝、七時に民宿岡田屋を発つ。そこからおよそ15分ほど進んで、雲辺寺の登り口に達する。そこまでは昨日途中であった方と一緒に来たのであるが、そこからは先に行くことを断って一気に駆け上がることにする。急で短い坂は時間をかけて登るよりも一気に駆け上がったほうが精神的にもまた肉体的にも楽だと感じる。
コンクリートで出来ている階段を登って、石と土の山道が続いていく。
坂もそれほど厳しいということはない。これほどに坂道ならば、よほど横峰寺のほうがきつかったし、ましてや焼山寺に及ぶまでもない。
1時間ほどで山道は終わり、舗装された道に出ることになる。
高山植物が生えており、この場所が相当高いところにあることが示されている。そこからはずっと舗装された道路を通っていけばいいだけである。
所々に遍路道があるがそれは大きく外れることはなく、すぐに道路と合流してしまうのであえてそちらの道をとることもない。雲辺寺に着くことになる。
意外にあっけなく。

第六十六番雲辺寺。
その名のとおり、まさに雲の上に存在している四国八十八箇所の最高峰の寺である。その寺からはかつて土佐の長宗我部元親が四国全土を眺め、四国統一の野望を抱いたといわれるように四国を一望できる位置にある。
まさに絶景というにふさわしい寺といえる。
またのその険しさから鶴林寺、太龍寺と並び、信長の四国制圧の時にも焼き討ちの危機を逃れた寺でもある。ここにくるまでに一人の僧侶の方に出合ったが、その方も歩き遍路で回られている人であり、昨日同じ宿にとまったのであるがその方は自分より更に遅くに宿についたらしくて、しかも朝5時に宿を発たれたということであり、この寺で合えるだろうかと思っていたのであるが、さすがに僧の方だけあって、歩くスピードも並ではないのだろうかと思っていのであろう、結局、納経所の方に聴いたらここをおよそ1時間前に訪れられたということである。

展望台にのぼり、その景色を眺めて楽しんでいるうちに歩き遍路の方が一人来られた。疲れもそれほど溜まっていなかったために、少々休んだあとに次の寺に向かうことにした。案外、簡単に雲辺寺を超えられたことに少し呆然とした気持ちであったが、また気持ちを引き締めて進むことにする。この寺は観光客も多くて、ロープウェイがここまで届いているということなのでツアーで来られている人たちも多く、大層にぎわっている寺である。この寺を越えると遂に四国最後の県、香川県である。

ここで一応愛媛県の寺は終わったことになるが、この愛媛の寺を想起するに山が多く全体として久万町まで一気に上り、松山市まで一気に下り、海岸線を歩き、横峰寺、雲辺寺と最後に登るという感じであった。
歩くことも次第になれてきて、徐々にその速度を上げていくことができた。
もうゴールを計算できる距離にきている。およそあと1週間もあれば、すべてを打ち終えることができるであろう。

第六十七番大興寺。雲辺寺からここまでの距離はずっと下り坂である。
その下り坂もなだらかではなくごつごつした遍路道であり、歩きづらいことはいうまでもない。足を挫きそうになること何度かあるが、ようやく1時間少し歩いた頃にまとまな道に出ることができる。
そこからは山郷のような道であり、後ろを振り返ると雲辺寺の頂上までの道のりが見て取れる。雲も消え去り、暖かい日差しが笠を差す。
達成感に酔いながら村落の間を通り抜けていく。
開放感で一杯になり、またそれは終わりに近づいてきているという実感から喚起される感情である。
もう山を登ることもないであろうし、一つ一つの寺の間の距離もそれほど離れているところはもうないという地図上で見る限りの楽観であった。
確かに、事実もうそれほど苦しむようなところもないであろうし、なによりも人がまったく通らないような山道を通ることがないという安心感からおこる精神的余裕という面が大きいのであろう。
辺鄙な道を通っていき、一面が黄色い畑のようなところを更に越えていき、墓の中をとおり、第六十七番大興寺についた。

少し、下る時無理をしたのか足のほうを傷めていたが、それほどの問題にはならずにこの寺を迎えることができた。この寺で先に宿を立たれていた、僧侶の方に出会うことができた。この方も相当に足を傷められているようである。
靴が悪いらしくて、足を引き摺っておられた。

やはり靴には最善の注意が必要である。
少々値段が張ってもいい靴はやはりいい靴なのであろうか。
ここで納経を済ませて、その僧の方と宿を出るときに頂いたおにぎりを食べていると、雲辺寺の頂上であった歩き遍路の方もあとからこの寺に到着されて、談笑する時間があった。
三人で話をして、終わりも近づいていることを悟りながらここの長居することはできなかったので先に出発することにした。次は、珍しい寺であり神社とあわさっている寺である、第六十八番神恵院、第六十九番観音寺のセットである。
距離はここからおよそ9キロほどの地点にありそんなに遠くはない。
しかし、寺を出るや否や道を間違えた。方角を間違えたらしくて、気づいた時にはおよそ20分ほどのロスをしていた。田園風景を横目に狭い道を通っていきずっと直線を歩いていった。
まもなく、観音寺市に入る。

何あらこの街は人がかなり多く感じる。観光地のような町のつくりであり、街の中心地の川には多くの賑わいを見せている。浜口雄幸の実家の横を通っていき、やがて観音寺市の郊外に出る。未知が入り組んでおり、道を間違えそうになる。町に入ると標識などがまったくないのがこの歩き遍路の欠点であろう。自らの方向感覚だけを頼りに、自分を信じてそちらの方にまい進するのである。

道を間違えたために時間を取っていたが、第六十八番の手前であの僧侶の方に再び追いついた。すぐ目の前に第六十八番神恵院の階段がある。
第六十八番神恵院。

一風変わった寺風である。ここはもともと神社であったらしくて神仏習合により寺と神社がミックスされたようである。特に見所といえるものもないのであるがその変わった風景に触れているというだけでその今この瞬間を満喫しているような気分になる。一緒に歩いてきた僧の方は本堂と太師堂で読経されている。
はじめて本格的な般若心経をまじかで聴いて少し興奮していたが、自分もそれには及ばないがここにつくまでに何十回と唱えてきたその経本を手にしてそれにあわせて読んでいった。
周りの視線が集まってきたがもはやそんなことに気を取られるほどに自尊心を持ち合わせていなかったし、なによりもこの旅が徐々に楽しくなってきていて夢中になってきていたのかもしれない。

その院の中に第六十九番観音寺がある。さらに階段を登ったところに本堂と納経所があり、そちらでもお参りをする。一足先に納経を済ませて僧の方を待っていたのであるが何しろ相当時間がかかっているようだ。
本格的にお参りするとなるとこれほどまでに時間をとる必要があるのかと感心しながらも今までの自分のやってきたそれと比較して情けなくも感じさえした。かなり待ったのであるが、先に行くことにする。
その方の荷物の上に札と密柑ひとつを置いて次を目指すことにした。
次の寺はここからおよそ5キロほどの地点にある第七十番本山寺である。

そこまでの道程は思わぬことで困難を極めることとなった。
寺を出て少し歩いているうちに例のごとく方向が分からなくなってしまい、道を尋ねる事にしたのであるが、道を聞いた人が八百屋の方であった。
道を教えてくださり、そちらに足を向けえようとすると密柑とバナナを5つずつくらい接待としてくださったのである。なにしろ、この手荷物はかなりのおもさである。食べながら進んでも一向になくなる気配がないので肩にかかる重量は一気に増していった。
また密柑の種も厄介であった。そして食べながら進んでいたのですこぶる歩くスピードが低下していき七十番につくのにかなりの時間を要すことになった。
大きな橋を渡り、鳥居をくぐると広い寺が存在する。遠くからもそれとわかるほである。第七十番本山寺。

この寺は国宝があってたいそう建築も見所があってよい。
納経の時間一杯であったのでそちらに先に足を向けてとりあえず納経をおわらせた。経の日程も終わりだったので、その広い境内を少し見て回ることにした。とにかく広広としていい感じである。河の側にあるためか独特のあのなんともいえない雰囲気をもっているし、重厚感溢れる境内の建物が目に付く。遍路の人以外の人が見るならば、この景観は殺伐と映ってしまうかもしれない。それほど配置も建造物も洗練されていて、普遍性を持ち合わせている。

しばらくしてそこを立ち去る。そこからすぐのところに宿を取っておいた。
本大温泉ビジネスホテルである。
アパートのようなところのカギを渡されてそこにはいる。本当にアパートのようである。居心地も少し悪いが仕方がない。夕食は外にある同じ会社が経営している食べ物屋に入って食べる。飲み屋みたいな雰囲気であり、一介の歩き旅をしているような人が入れるような感じではなかったが、早々夕食を済ませ、元の宿に戻っていった。
残る寺もわずかに感じるようになってきた。


◇筆者プロフィール
藤井哲也(ふじい・てつや)
株式会社パブリックX 代表取締役/SOCIALX.inc 共同創業者
1978年10月生まれ、滋賀県出身の45歳。2003年に若年者就業支援に取り組む会社を設立。2011年に政治行政領域に活動の幅を広げ、地方議員として地域課題・社会課題に取り組む。2020年に京都でパブリック Xを第二創業。2021年から東京でSOCIALXを共同創業。
京都大学公共政策大学院修了。日本労務学会所属。議会マニフェスト大賞グランプリ受賞。グッドデザイン賞受賞。著書いくつか。
個人用「X」はこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?