滕仲泰

中国・日本考古学者。主に中国の魏晋南北朝時代、古代の日中交流、アジアの文化遺産が専門。…

滕仲泰

中国・日本考古学者。主に中国の魏晋南北朝時代、古代の日中交流、アジアの文化遺産が専門。中国、台湾などをウロウロしています。21年間地方自治体の学芸員を経て、2021年4月から某地方国立大学で「博物館学」の教員をしています。

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今読んでいるものから覚書(更新途中)

・博物館内部の歴史学者は、多くが自らを博物館において歴史を研究する者だと位置づけ、博物館で仕事をしているということさえも、研究機関に入ることができない者の次善の選択肢であり、「博物館の仕事」はたんに組織の任務を履行する行政技術に過ぎないと、暗黙のうちにみなされている。 ・政策議論は、地方博物館・歴史系博物館は人を核心とし社会として存在し、エリート視点の除去を主導し、歴史文化の解釈権限を大衆に返還するものだと主張した。しかしながら、解釈権の開放は実務上、博物館経営をコミュニテ

    • 博物館学?

      「博物館学」への違和感  僕は大学で「キュレーション分野」、つまり博物館学芸員課程を単なる資格取得課程としてではなく、ミュージアムについて学ぶ正規の分野として独立させた専攻に所属し、「博物館概論」「博物館経営論」「博物館展示論」の科目を教えている。もともと研究分野は考古学だけれど、大学教員として採用された専門分野は「博物館学」ということになる。この「博物館学」というのは、いったい何なのだろう。  「博物館学」という名称は研究分野名なり書籍名なりとしては一般に流布している。し

      • 韓国百済領域出土の中国陶瓷について

         韓国百済領域出土の中国陶瓷について、王志高論文(村元・柳本両氏訳)[王2014]に至るまでの、最近の中国発表論文の流れを追っておきます。  2003年に、南京大学歴史系教授・南京大学文化与自然遺産研究所所長の賀雲翺先生が、六朝銭文陶を集めてその時代や性格について論じられました。その中で、六朝銭文陶として最古の事例は東呉赤烏12年(249)の安徽省馬鞍山市朱然墓出土の銭文罐で、最も新しい事例は鎮江高資東晋窖蔵出土の銭文瓮であると述べられています[賀2005]。  それを受

        • 研究者の道をひらくこと

          ▼はじめに 僕は考古学が専門分野で、現在の所属大学での仕事は博物館学の担当教員です。今年2021年の4月から大学教員になったばかりで、それまで21年間、地方自治体で文化財行政担当課や博物館の学芸員をしていました。でも、学芸員を目指していたわけではなかったし、子供の頃から遺跡や古墳好きだったわけでもありませんでした。  長文で恐縮ですが、これから大学で勉強したい人や、人文系の学芸員・研究員・大学教員になりたいと思う人に、何か参考やきっかけになれば幸いです。 ▼本ばかり読んでい

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          博物館学メモ

           今春、僕は某博物館の学芸員を退職し、4月から大学に転職した。それで引越しの余裕もなく、偶然転職先の近所にあった伯母の家に居候させてもらっている。その伯母が、行ってみたいランチがあるのよねえ。と言う。見ると、煮魚とかバラ寿司とか、美味しそうではあるけど、内容としては小ぎれいな和食屋さんによくあるメニュー。でも伯母が言うならまあいいかと、一緒に行くことにした。結局、とても美味しかったし、いいお店だったので、行ってよかったと思う。  そのとき、はたと思ったのだが、僕はよその地方

          博物館学メモ

          日本の学芸員という職業(3)

           さて、それでは日本において公務員学芸員が、大学教員や国立研究機関研究員などに比べて専門性が劣るのかというと、そうではない。学会・研究会などに参加しても、学術誌に発表された論文を読んでも、職業的研究者である大学・研究機関所属者と対等に渡り合い、あるいはそれらの人々を凌ぐような実力を示して一目置かれている公務員学芸員は少なくない。そうした優れた公務員学芸員の中には、先ほど述べた研究機関認定の博物館や組織に所属していたりする人ももちろんいるが、多くの人はそんなアドバンテージの無い

          日本の学芸員という職業(3)

          日本の学芸員という職業(2)

           独立行政法人 国立文化財機構に属する国立博物館、文化財研究所などは学芸員ではなく研究員で職制上の身分も専門職の位置づけだし、一部の公立博物館・美術館の中には研究機関と位置づけられている館もあり、そこに所属する学芸員は研究者として扱われる。これらに所属する人たちは、職務として研究することを公的に認められているし、文部科学省による研究者番号の付与を受けることができ、日本学術振興会の科学研究費補助金(いわゆる「科研費」)を申請する資格がある。  ところが、日本の公務員学芸員の現状

          日本の学芸員という職業(2)

          日本の学芸員という職業(1)

           学芸員という職業に憧れる、という声をしばしば仄聞する。どういう点に、どんな理由で憧れているかは人それぞれなのだろう。でも、一方で、がっかりして辞めてしまう人もいる。この職業に就いてから辞めるのも、志の途中でこの職業自体をあきらめてしまうのも、どちらもある。それは、他のさまざまな職業と同様に、学芸員もまた、憧れる面ばかりの素敵な職業ではないということだ。  僕は「学芸員」という職名で、現地調査、文化財行政、博物館という学芸員が担う主要な3つの畑を経験して20年、今に至っている

          日本の学芸員という職業(1)

          中国近代歴史建築 上海・金門大酒店

           以前、南京から帰る途中に上海で泊まったホテル。上海中心部の南京西路、人民広場の北側向かいにある。地鉄「人民広場」站も目の前にあり、交通に遊びにとても便利な場所だ。外観からして、重厚で落ち着いた近代建築の風格がある。1989年に上海市級文物保護単位に指定された歴史建築である。  この建物は1926年に竣工したイタリアルネサンス様式風の建築だ。じつに80年余りの歴史があり、その趣を今に伝えている。現在は最上階に1フロア増築されて9階建てだが、本来は8階建てだったという。エントラ

          中国近代歴史建築 上海・金門大酒店

          巴林左旗林東鎮 遼 南塔

          有料
          500

          巴林左旗林東鎮 遼 南塔

          Beng Mealea

          有料
          500

          Beng Mealea

          南京江寧上坊東呉大墓

          (内容は2011年の覚書を2020.02.02修正)   南京で現在唯一、墓室を完全に保存している六朝墓が、2005年に発見された江寧上坊大墓。南京市博物館が発掘調査を実施した。以前、発掘調査後の保存工事中に4,5回見学に行った。その調査成果はここでは詳しく分析して述べることはできないので、関心のある方は報告原文を参照してもらいたい(南京市博物館・南京市江寧区博物館2008「南京江寧上坊孫呉墓発掘簡報」『文物』2008年第12期)。  江寧上坊大墓は墓主の個人名こそ特定でき

          南京江寧上坊東呉大墓

          地名まちがい

           考古学で使う中国の地名のはなし。  日本考古学でも同様なのだけど、中国でも考古資料や遺跡に関係する地名というのは、日本でいえば小字に相当するものが多く、あるいはそれよりももっとローカルな場合もある。  そして地名を知るにあたってさらに厄介なのが、中国の漢字。現代中国で使う簡体字という漢字は、必ずしもすべての漢字が簡体化しているわけではなく、比較的単純な字形などの漢字で簡体化せずにそのまま使われているものもある。そのため簡体化した漢字が別の漢字と同じ字形になり、もともと全く別

          地名まちがい

          略称「滬」=上海

           上海をさす地域呼称を、滬(hu4・日本語音読み「こ」/簡体字では沪)といいます。  「滬」は本来、竹を編んで作った淡水漁撈用の定置漁具(ヤナの一種らしい)の名称です。上海はもともと長江デルタの河口部先端にあたり、今でも縦横に大小のクリークが無数に走っています。  かつて呉淞江(蘇州河)の河道沿いに深くいりくんだ入江があり、それが「滬瀆(hu4 du2・ことく)」と呼ばれたことから、上海の呼称を「滬」というのだそうです。地域性をよく表した名称で、僕は好きです。  上海を「滬」

          略称「滬」=上海

          《足立喜六资料》简介

            ――足立喜六先生的遗稿类资料收藏于名古屋市博物馆,他是名著《长安史迹之研究》著者,作为在中国史迹研究的学史上留名的非常著名学者。足立喜六先生的资料是至今传达在近代中国的历史遗产的一个极为珍贵的记忆类文化遗产。 ■足立喜六是谁?   足立喜六是学校老师,土木技术和数学的专家。1871年日本静冈县磐田郡袖个浦村(现在的磐田市)出生。1898年毕业东京高等师范学校(今筑波大学)。他应聘推进近代化教育改革的中国清朝政府招聘,从1906年到1910年在陕西省西安的陕西高等学堂执了

          《足立喜六资料》简介

          古代豪族尾張氏、登場の背景

           濃尾地方は、古墳文化の成立に深く関与し、またヤマト政権ないし畿内勢力の東方経略の前進基地というべき位置を占める。これまで筆者は名古屋市内の古墳の発掘調査を担当し、また美濃・尾張各地で古墳時代に関する数多くの調査研究にたずさわってきた。なかでも、守山区上志段味に展開する志段味古墳群の調査と整備事業は、筆者が着手の先鞭をつけたプロジェクトで、近年の濃尾地方にはない大きな成果と展開を得た。  上志段味の東谷山では、山頂尾根上に尾張戸神社古墳・中社古墳・南社古墳、山麓の河岸段丘上に

          古代豪族尾張氏、登場の背景