古代豪族尾張氏、登場の背景

 濃尾地方は、古墳文化の成立に深く関与し、またヤマト政権ないし畿内勢力の東方経略の前進基地というべき位置を占める。これまで筆者は名古屋市内の古墳の発掘調査を担当し、また美濃・尾張各地で古墳時代に関する数多くの調査研究にたずさわってきた。なかでも、守山区上志段味に展開する志段味古墳群の調査と整備事業は、筆者が着手の先鞭をつけたプロジェクトで、近年の濃尾地方にはない大きな成果と展開を得た。
 上志段味の東谷山では、山頂尾根上に尾張戸神社古墳・中社古墳・南社古墳、山麓の河岸段丘上に白鳥塚古墳と、大型の前期古墳が存在する。ことに墳丘長115mを誇る白鳥塚古墳は、畿内の特色が色濃く、また独自の特徴をあわせもつ大前方後円墳である。また尾張戸神社古墳の墳丘上に鎮座する尾張戸神社は『延喜式神明帳』に登場する古社で、古代豪族尾張氏の祖先神を祀り祖先系譜を今に伝える。
 これら東谷山の前期古墳は、白鳥塚古墳・尾張戸神社古墳→中社古墳→南社古墳の順に築かれた。尾張戸神社古墳は直径8m程度の円墳で、白鳥塚古墳と共通の墳丘や葺石の特徴をもちほぼ同時期である。中社古墳は前方後円墳で、濃尾では非常に珍しい古式の王陵系円筒埴輪をもつ。南社古墳でも、中社古墳よりやや新しいようだが王陵系円筒埴輪がみられる。とくに中社古墳では円筒埴輪列が当時のまま並んだ状態で埋没遺存し、墳丘の葺石の特徴と円筒埴輪が畿内の前期古墳と酷似することは衝撃的だった。こうした調査成果は何を物語るのだろうか。
 尾張の大型古墳の変遷を見直すと、志段味古墳群の系譜が一度停止するのと相前後して、名古屋台地の古墳系譜が活動しており、名古屋台地と志段味の古墳築造動向は互いに補完的に連続している。名古屋台地は、いずれ5世紀末~6世紀前半に断夫山古墳などの大古墳を築く尾張の中心的勢力の本拠地でもあるが、古墳の出現時期は遅い。志段味古墳群で白鳥塚古墳から南社古墳まで、畿内の王陵様式を直接的に取り入れた前期古墳がほぼ4世紀を通じて築かれたことは、志段味こそが尾張南部の最初の王墓の地であったことを示している。尾張氏の祖先神を祀る尾張戸神社がこの地にあるのは、こうした状況が関係しているにちがいない。
 さらに周辺では、東海市・兜山古墳、緑区・斎山古墳、北区・白山藪古墳、守山区・川東山4号墳、春日井市・出川大塚古墳など、大高名和の旧海浜部から庄内川沿いにかけて、三角縁神獣鏡・石製品・古式の円筒埴輪といった大和王権とのつながりを示す文物が早くから流入している。
 つまり、古墳時代前期の尾張南部では志段味、名古屋台地、大高名和など、いくつかの地域社会(集団)が存在し、それらは互いに連携したようである。これらの地域集団は庄内川や台地を軸として内陸・水界に生活圏を共有するところが多かったとおもわれる。そこで内陸から海浜部まで、交通交易・生業・政治などの上で利益を保障するため集団的結合を作ったことは想像に難くない。儀礼・祭祀が社会秩序の根幹であった古代においては、その社会システムとして、同じ祖先神・先祖や祭祀を創出することはもっとも有効だっただろう。ならば同じ祖先と祭祀を共有する=同族・一族である。ここに古代氏族、すなわち尾張では「尾張氏」の原形が出現すると考えてよいだろう。
 近年の文献史学の成果は、そもそも古代氏族は必ずしも既成の血縁集団ではないことを明らかにしている。これは尾張でもいえることで、すでに古墳からみてきたように、「尾張」という苗字をもった強大な特定の血縁的な一族が初めから存在したわけではないのである。
 では、濃尾地方の広域統治者たる古代豪族「尾張氏」はどのようにして現れ、どのような集団だったのであろうか。以上に述べた問題意識を踏まえて、古墳の考古学的研究によって解き明かしていってみたい。

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