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日本のくらいくらい未来を見据えて〜多和田葉子『献灯使』書評〜

 多和田葉子がノーベル文学賞のブックメーカー予想で名前が挙がったことがニュースになっていた。カズオ・イシグロといい、やはり民族性を問うたものや、多言語性というのは着目されるポイントなのだろう。

https://www.sankei.com/life/news/191003/lif1910030020-n1.html

 というわけで、今回、始めてnoteに投稿してみるが、タイムリーだったので、数年前にシミルボンという書評サイトで載せた多和田葉子『献灯使』の書評の転載をしてみる。だが、本作の描くものは未だ眼前に映る現実の未来を彷彿とさせるリアリティをもっている。また、本作は2018年に全米図書賞<翻訳文学部門>を受賞した。

 描かれるのは少しだけ未来の異質な「日本」。鎖国が行われ、外国語は使用されずまた学習されることが禁止されている。人間の寿命ははるかに長くなっており、定年退職も「不思議な制度だった」と振り返り、その世界では若い人たちに職場を譲るための制度だったと解釈されている。

 例えばこの世界では、新しい休日は民意で決まり、「本の日」や「歌の日」、「絵画の日」などが作られ、「体育の日」はからだが思うように育たない子供が悲しまないように「からだの日」になり、「勤労感謝の日」は働きたくても働けない若い人たちを傷つけないために、「生きているだけでいいよの日」になっている。ただ漫然と読むとなんだかマヌケな感じがして面白みを感じる。だが、本当に僕たちは笑ってられるのだろうか。最近になってやたら横文字を使用する政党や、ポエム的表現などのバズワードを使用する企業などが現れているのを見る限り、なにやら身近に起きそうな「ヤバさ」を感じる世界観だ。

 『献灯使』は百歳を超える「義郎」とその曾孫である「無名」を中心に描かれる。義郎は今まで生きてきた人生で身につけてきた様々な「当たり前」があるが、それが通用しなくなることを痛感している。その子のためだと思って行うこともことごとく空振りに終わる。例えば、孫に自動車の運転を教えることを楽しみにしていたが、そもそも自動車自体が国内から消える。また、義郎が彼の就学のために積んでいた資金を銀行に溜めていたが、それを孫が勝手に持っていてしまい腸が煮えくり返っていたが、一ヶ月後に大銀行が次々と倒産したりと、今までの常識が全く通用しない自体が起きている。それに対して義郎は曾孫の無名の教育に対してはあれこれと思案し、弱気になりながらも行なっている。

あらゆる風習がでんぐり返しを繰り返すようになって、大人が「こうすれば正しい」と確信をもって教えてやれることがずんずんと減っていった。
(多和田葉子『献灯使』p140)

 さて、産経ニュースの多和田葉子の『献灯使』に関するインタビューで彼女は次のように答えている。

でもとくに3年前(=2011年)の3月以降『これまでの何かが間違っていた』という危機感を抱いた人は多い。『このまま行けば世界はどうなる?』と想像せずにいられなかった。(括弧内引用者)
(「多和田葉子さん新刊「献灯使」 震災後、鎖国の苦悩と希望…現代社会への重い問いかけ」http://www.sankei.com/life/news/141112/lif1411120015-n1.html)

 何が起きるかわからない。今まで積み上げてきて、「当たり前」だと思われてきたことが通用しなくなる。それが、多和田葉子が震災後に感じたリアリティであった。本書で描かれるのは現実味のない空想(=SF)だろうか。その問いかけの答えは、「いま・ここ」の現実とこの小説を見比べてみることで浮かび上がってくる。


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