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何かを決めるためには決める自分を決めておく必要があるのではないか

昨日、書くのに時間がかかってるので、早く書くにはどうしたらよいか、という記事を書いた。

書くのに時間がかかってしまう対処法としては、
何を書くか考えるのに制限時間を設けたらよいのではないか。

ということを思いついたので、さっそく挑戦してみた。

駅からうちに着くまでの約1km弱歩く間に、ネタを決めようと試みた。

結果はどうだったかというと、決められなかった。
どうにも決めあぐねてしまった。
選り好みをしているのか。


そもそも、「誰に」「何のために」「何を」というのが”どフリー”な状態で、果たしてどれだけ決めることができるのだろうか。
さあ書こうとしたとき、そこからゼロベースで、これらを決めようとするのは、なかなか負荷が高い行為に思える。

つまり、何を書くか決めるためには、ある程度事前に決めておくことが必要なのではないか。
特に、自分は何者か、何を表現する人なのかは、あらかじめ決まっている、ないしは把握しておく必要があるのではないか。


どうも自分は自己紹介が苦手で、だからいまだにnoteでは自己の詳細を書けていない。

自分で自分が把握できていない、自分はこうだ、というものがわかってない(気がしている)のだ。

幼い頃は、親や先生に言われたとおりに従い、いちいち許可を求めて行動する”良い子”で育ち、大人になってからも、置かれた環境に最適化する、という生存戦略で乗り切ってきた結果、「何が自分のしあわせ?」「何をしてよろこぶ?」というアンパンマンマーチに否定される人間になってしまっていた。

20代も終わり頃になってようやく、自分の好きってこういうの、とか、自分のキャラってこんな感じ、みたいなのが、なんとなく見えるようになってきた。

とはいえ、まだなんか「自分はこう!」みたいなのって、決めあぐねているんだな。
どうも、決めない限り自分はまだ白紙であり、その白紙の部分に期待を寄せている節がある。

でも、ほんとは決めることでしか先へ進めないのも気づいてはいるのだ。

というわけで、結局は決めていくしかないなと、ここに思いいたったわけである。

――というようなことを今日は書いたらいいかなって決めたのでした。



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