猟師の炎上と「差別」2

ひとつ前の記事の続編です。

児玉千明の炎上についてご存じない方は、こちらのニュース記事といくつかのまとめサイトをご覧ください。

4.本当の炎上の理由は?

私はこの炎上を、児玉一人の問題に還元するべきではないと思う。

既にみた通り、猟師の炎上の理由は燃やす側にしかない。では私のような肉屋も含めて、情報発信する狩猟関係者はロシアンルーレットの弾が自分にあたるかどうか、運にまかせるしかないのだろうか。そんな理不尽な状態を解消するにはまず、燃やされる側の理由ではなく、燃やす側の動機を分析しなければならない。「嫌なら見なきゃいいだけ(堀江貴文)」はその通りだが、当事者の問題はそれでは改善しない。

私は猟師の炎上の理由は、火をつける側から見て「自分がタブー視しているものをタブー視していない人の姿がそこにあるから」につきると考えている。今回も、燃えだした最初の2つの投稿があきらかにそういう反応だったし、Evaによる「倫理観の欠落した」という表現は、これがタブー破りの問題であることをまっすぐに示している。

人は普通、自分の持っている倫理観を他人も共有していると思っている。例を挙げると、殺人はいけない。それは当たり前だとたいていの人は思っている。だから人が殺されることはそんなにおきないし、人を殺せばその人は適切な制裁を受けると信じられる。倫理観が共有されていることが、安心や安全につながる。でも実際には人が持つ倫理観は多様だ。そこで、なんでこんなことが許されるんだろう、という怒りが炎上をおこす。

猟師に限らず、炎上とはそういうものなのかもしれない。私のツイッターのタイムラインではよくレイシストが燃えている。自分が「やってはいけない」と考えていることを平気でやっている人を、私を含めて差別に反対する人々が燃やしている。つい最近は嫌韓ヘイトスピーチを繰り返していたアカウントが世田谷年金事務所の所長であることが特定され、炎上→更迭された。

私はレイシズムは社会的制裁を受けて当然だと思っている。事実を捻じ曲げ、被害当事者を出すレイシズムはあるべき社会秩序を壊すからだ。この件でも匿名アカウントの身元が暴かれたことについて、やりすぎと見る向きがあるが、すでにヘイトスピーチ解消法という法的根拠があるし、「公正」という近代社会に不可欠な秩序を損なう言動は、徹底的に糾弾するのが社会正義だ。レイシズムは言論の自由や表現の自由で是認されてはならない。差別は社会を壊す。

では、猟師の炎上はどうだろう?そこに社会正義はあるのか。

5.狩猟とタブー

「ない」と、私は思う。

猟師の炎上でタブー視されていることは、まずは狩猟という形の殺生だろう。近代社会では人間は基本的に自由だが、社会生活をする以上全体の秩序は必要で、そのためにルールが作られる。そこで重要なのが、ルールが公正であることだ。狩猟は私たちの社会に必要なものだし、たとえ必要でなくてもあってよい。野生鳥獣の殺生には人間の被害者がいない。ペットや家畜ならともかく、野生鳥獣という人に依存せずに生きている誰のものでもない存在に対して、自分だけ特別な思い入れを主張する権利は誰にもない。自分とは違う感覚を持つ人を前にして戸惑ったり傷ついたりしても、否定するのではなく違いから学ぶべきだ。むしろ感覚の多様性を否定する方が社会の公正さを損なう。わざわざ騒ぎを起こす目的で投稿してタブー破りの快楽に淫しているのであればともかく、私が知っている燃えた投稿はどれも、猟師の自己表現や活動紹介にすぎない。それらは表現の自由、行動の自由で守られるべきものだ。乱獲や密猟は規制されなければならないが、それは人間全体の生きる環境を損ねるからであって殺生のタブーとは別の話。

とはいえ、絶命させることそのもののタブーについては、「食べることは他の命をいただくこと」とか「害獣を減らさないと農地を守れない」とか、すでに定番の対抗言説があり、ある程度社会に浸透している。動物愛護思想と狩猟の戦いを十年近く見てきた者としては、よくここまで世の理解が進んだものだと思う。ちだいもEvaもそこを意識せざるを得なかった。が、人はそんなに簡単に自分の倫理観をあきらめない。それが社会に共有されていないことは不安の原因になるからだ。

ちだいの記事に戻ろう。

「マグロの解体ショーはいいのか?」と言ってくる人がいますが、マグロの解体ショーはしても、イルカの解体ショーはしないのです。四つ足の動物の解体ショーは可哀想に見える。多くの人は望んでいないということです。おまけに、マグロの解体ショーだって、今、「日本はグロい」と言われつつあるわけで、いずれマグロの解体ショーもなくなるかもしれません。重要なことは「マグロさんが可哀想だからマグロを解体するな!」と言われているわけではなく、「ショーをするな」と言われているということです。…手脚を吊して腹をかっさばいた状態で言っているのは生理的に気持ち悪いのです。

我々は「と殺現場」というものを見ることはありません。今日もどこかで牛が殺され、豚が殺され、鶏が殺され、お肉として出てきています。動物がどんどん殺されているところなんか見せられたら、お肉なんか食えなくなってしまうということもあるのですが、見せないことが命を奪われる動物に対する尊厳だったりするわけです。熊や鹿といった料理は猟師がさばくのが一般的で、もちろん、今日も日本のどこかで猟師に撃たれた鳥獣がお肉になっているのでしょう。そのお肉になる工程を積極的に見たいわけではないし、仮に見せられるとしても、落ち着いたトーンで見せてくれないと、熊さんが可哀想です。

解体への嫌悪丸出し。

これは要するに、解体するのは勝手だが見せるな、見せるなら俺が受け入れられる形で、という主張だね。することを否定しないのも、狩猟を否定しないのと同じで、そこは否定できないからというだけだろう。

「多くの人が望んでいない」には、「そうですか」と返すしかない。表現の自由は他の人が望むか望まないかと何の関係もない。ある人が表現するかどうかと、他の人が見るかどうかは別問題。ここを多数決で決めることはマジョリティによるマイノリティの抑圧であり、不公正そのものだ。「見せないことが命を奪われる動物に対する尊厳」「落ち着いたトーンで見せてくれないと、熊さんが可哀想」とは、見せるかどうか、見せるならどう見せるのか、を判断するのは誰なのか、という権力構造を隠蔽している。ちだいは見せる人の自由を抑圧するために、自分ではなく動物の立場を利用して他者性を演出している。中世なら「神の怒りを買う」とでも言うところですね。知ったことかよ。なんだかんだと理由付けしているが、これは批判ではなく嫌悪。ずいぶんとまたチープな理屈を並べたものだ。ここ全部まとめて「気持ち悪い」の一言で十分。(ついでながら、ちだいの選挙ウォッチャーは全体として、「自分がタブー視していることをタブー視していない人が公人として認められることへの怖れ」が原動力。)

これを「解体フォビア」と呼ぶことにする。フォビアとは恐怖症のことだが、恐怖から嫌悪に走るのはよくあることで、ここではそれが差別にまで至っているホモフォビア=同性愛嫌悪、ゼノフォビア=外国人嫌悪、などと並列できる表現をしておく。

今回は過去深刻な差別を生んできた穢れ論を堂々と持ち出す人すら出てきた。

…「命を奪う」「血を流す」は宗教的にいうと穢れとなります。しかし食事は人にとって大切な行為であり、その穢れた行為をしなければ人は生きれない。なので感謝を忘れず最小限の行為を粛々と行う事で、人は他の犠牲によって”生かされている”と食事の度に再認識する。その感謝の「いただきます」であると教えられました。命を奪い食材にするまでの過程で、ひとつでも戯れた行為があれば、穢れを口にするので私は”不味い”と感じ、無駄な殺生と思ってしまうのです。

知識の誤謬については横におく。「私は”不味い”と感じ」ってなんですかね。なぜあなたが児玉千明が捌いた肉を食べることになっているのか。嫌なら食べなければよいし、その前に食べさせてもらえないでしょう。あなただろうと誰だろうと穢れていると感じるのはどうしようもありませんが、それに猟師や肉屋が合わせる道理もない。我々のあり方は我々が決めます。


猟師の投稿は、殺生のビジュアルがなくても解体だけで燃える。今回も児玉が白目で捌こうとしていたシカは他の猟師が仕留めたものだったし、クマも彼女一人で捕ったとは考えにくい。殺すこと抜きで十分燃える。解体するタブー、屠体(死骸)や解体作業を見せるタブー、その見せ方のタブー、これらを合わせて「解体タブー」と呼んでおく。本音では狩猟も猟師の存在も否定したい人が、それが叶わないときに、何とか自分の倫理観=感じ方を公共のルールにしようとする時に設定するのが解体タブーだと、私は思う。

『農地を守るために害獣を殺すことに公益性があるのはわかりますよ?でもそれを捌くのは猟師さんだけでやればいいでしょう?公開する必要ないでしょう?やるにしても私たちが受け入れられる形でやるべきでしょう?』


こんな要求に、応える必要がどこにあるのか。


ここでもう一つ、解体タブーについて、歴史的な視点を提供しておく。

6.解体タブーと差別

鹿や猪など、四本足で歩く動物を指して「四つ足」と呼ぶことがある。これは「獣」を「鳥」と区別して呼ぶ言い方で、猟師も使う。が、これは狩猟界以外では部落差別に関連して使われる言葉だと私は認識している。部落差別の発生や現状について私はわずかな知識しかもたないが、四つ足を捌く者は穢れている、という観念は、部落差別の成り立ちを語るうえで欠かせない。

現在の被差別部落のルーツには近世のエタ村がある。エタ(穢多)とは、主に死んだ牛馬の解体処理を担った人々のことだ。車がない時代、牛馬は都市部では乗り物、農村部ではトラクターとして社会の必需品だった。一方化学繊維がなかった時代、動物の皮は大変重要な資源だった。その牛馬の死骸の始末と、皮革の供給確保という二つの社会的必要性から、その仕事に従事するように世襲で縛り付けられた職人集団がエタの人々である。

江戸時代は獣害が深刻だった時代でもあるのだが、鹿皮や猪皮もエタが扱っていたことから、野生動物も彼らが捌いていたと思われる。エタのルーツは中世の大名たちによって軍需のために囲われた皮革業者とされているが、中世までの武将は軍事教練を兼ねて鹿の巻狩り(グループ猟)をする。その鹿を捌き、皮を加工していたのはそういう職人だった。武具というのは材料に大量の皮革を使う。鹿皮の需要といえば、最近まで剣道のグローブや弓道の小手など、武道具の素材が中心だった。

日本では近代まで畜産が発達せず、牛馬は生きている状態でこそ最も価値あるものだった。だから、屠畜(家畜を屠る)は稀な作業であり、社会的必要性も高くはなかった。エタという集団の必要性は、第一には解体作業にあった。だから現在の部落問題で言われる「食肉の穢れ」とは、元々は死穢(しえ)の一種だ。穢れているとされる死骸に触れて、それを資源として価値あるものに変換する作業(=キヨメ)が、明治になって国策で牛肉食が奨励される以前のエタの仕事であった。

解体タブーと差別の歴史的関係が近代の部落解放運動のなかで認識されてきたことは、その起源にある水平社宣言(1922)にはっきりと見て取れる。

兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者(かつごうしゃ)であり、實行者であった。陋劣(ろうれつ)なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價(だいか)として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸(か)れずにあった。

なぜ四つ足を捌くことが穢れとされたのかは、いま私の手に負える問いではないし、この記事の主旨にも関係ない。一般に、穢れに触れることはタブー視される。今の猟師への中傷で鳥と四足獣がそれほど区別されているわけではないが、生き物の解体をタブー視することは深刻な差別を生んできたという歴史的事実をここに確認しておく。

7.猟師と「差別」

私は、過去に差別を生んできた解体タブーが改めてルールとして正当化されることで、私的な感覚の「解体フォビア」が、社会構造としての「猟師差別」へと発達していくことを懸念している。

エタとは別に、サンカなどの山の民で狩猟する人々が差別されてきた歴史はある。現在、狩猟への偏見もはっきりある。が、私は今、猟師差別なるものがあるとは思っていない。差別は強く否定されるタブーだ。定義をあいまいにして使ってよい言葉ではない。現代の狩猟は、最近まで大方はレジャーや副業の領域だった。好きでやっていることに対して世の中の偏見があるからといってそれがすぐに差別とは言えないだろう。何かちょっと目立つことをやれば何か言う人は出てくるのであって、いちいち否定するようなことでもない。

ただ近年、狩猟は若い人たちの間でレジャーというよりライフスタイル=生き方になりつつある。自分で食べる肉は自分で捕る、とか、自分が捕った肉で子供を育てる、というのは趣味嗜好ではなく生き方なのだ。そうすると生計は別のことで立てていたとしても「猟師」はアイデンティティーになる。レジャーとしてゴルフやスキーをする人は自分のことを「ゴルファー」「スキーヤー」とは思っていないだろう。「猟師」は今、そういう位置づけから外れてきている。差別とは「女性」「黒人」など、属性を蔑むことを言う。サンカや部落民のように生物学上なんの差異もなくても民俗で差別されてきた属性はある。時代が進んだ今、ライフスタイルと民俗の間に明確な線引きはできるのだろうか。さらに、狩猟を生き方として選んだ今40代以下の猟師達の子供が育ってきている。生まれた時から生活の中に狩猟がある子供たちにとって、「猟師の子」は属性ではないのだろうか。

エタ村の成立について、江戸文化の研究者・田中優子は次のように書いている。「かわた村」とは、ここではエタ村と同義と思っていただいて構わない。

…かわた村が作られた実際的な理由はなんであっただろう。かわた(筆者注:漢字で書くと皮多/皮田)村はその呼び方からいっても、明らかに「斃牛馬の処理と皮革の供給」にその機能があった。つまり差別するために作られたのではなく、必要に迫られて作られたのだ。(「カムイ伝講義」 第二章 かわた村の成立 より)


「猟師の仕事の必要性は認める。が、よそでわからないようにやってくれ」という隔離の論理は、エタ村が作られた論理に通じないだろうか。彼らには居住の自由がなく、決められた地域に集住させられていた。かつてなら地理的な隔離だったことが、視覚メディアが発達した現在「見せるな」に置き換えられている、とは言えないだろうか。

もう一つ、東北のマタギなど、世襲で独自の風習を維持している猟師達と比較して、獲物の扱いや祈り方などの作法を云々する人もいた。これはオリエンタリズムという差別の形態だ。民俗学的関心で狩猟を異文化、猟師を周縁化された存在として見ているからこうなる。猟師も近代社会の一員。勝手な思い入れで作法を押し付けてはならない。

これからの日本では、野生鳥獣管理の一端として狩猟ビジネスやその獲物の活用のジビエは、産業として発達し、猟師やジビエ業者の社会的位置づけが変わっていくことだろう。狩猟への偏見や嫌悪が構造化され、差別として社会に定着してしまうことを私は警戒する。数十年後の日本の未来がそんな社会であってはいけない。それを防ぐためには、いまこの過渡的な状況で起こっていることが何なのか分析し、何が公正なのか、何があるべき倫理なのか、言葉で共有する必要があると思っている。この記事はそのために書いている。もちろん現代の猟師と近世のエタの間にはいくつもの違いがある。が、こういうことが一切言葉で整理されないまま放置されている現状に、私は一石を投じておきたい。

8.解体という経験の価値

猟師にも肉屋にも、自分のやっていることを表現する権利がある。が、それ以上に、その表現に触れて恩恵を受ける人々についても書いておきたい。

捕殺そのものは狩猟免許がなければできないが、猟師が捕った野生動物を一般の方と捌いて食べる解体ワークショップや、猟師と猟場を訪れる狩猟体験ツアーは、ここ数年ブームといっていいほどの人気企画になっている。猟師が自然学校を主催したり、学校の先生が猟師を呼んだり、大きなイベントの1コンテンツだったり、形式は結構なバラエティーがある。私自身2009年以来、いろいろな形式の解体ワークショップを一般の方とやっているが、依頼されてやる出張教室も含めてかなりの人気コンテンツだ。統計などないのでふわっとした話でしかなく恐縮なのだが、たくさんある具体例の中で、星野リゾートという観光業界のトップ企業による洗練された商品の事例を一つ挙げておく。

このニュースリリースの冒頭にある、

命あるものが食材として変化していく過程に、これまでに体験したことのない感慨が生まれます。

というフレーズは、うまい表現だと思う。体験したことがないから、それがどういう体験なのか言葉にするのが難しい、そういう「感慨」が場に満ちていく時間に、私は何度も立ち会ってきた。数百年にわたって生産と消費が乖離し、タブーとして遠ざけられてきた解体に今、あえて経験してみる価値が生まれている。

大手の星野リゾートが企画していることからわかるように、こういう企画は単に狩猟に興味のあるクラスタの内輪の話ではない。経験的に言っても、狩猟体験や解体イベントは、単に狩猟に興味がある人だけではなく、食に関心の高い方、親子で食育体験したい方、その他、単純に面白そうだから、などなど、かなり多様な人が来る。このニュースリリースもそうなのだが、こういう企画の広報ではたいがい解体の写真を使わざるを得ない。これは、内容を広めるためと同時にゾーニングのためでもある。いくら言葉で説明していても、当日来るまで理解していない人はいる。当日の参加者をゾーニングで守るためには、画像で見せておくことが有効だ。

狩猟や解体の表現を制限することは表現する側の権利だけでなく、この人たちが「これまでに経験したことのない感慨」を味わう機会を奪ってしまう。狩猟は閉じた関心クラスタではなく、自分がまさか狩猟に興味を持つとは思わなかった人々がイベントや猟師の活動に触れることで、関心がどんどん広がっている。

いま40代以下でアクティブに活動している猟師達には、子供のころから親の猟場についていったり、いろんな野生肉を食べたり、という経験をしてきた人はごくわずかだ。そういうものと無縁な生い立ちから、何かのきっかけで狩猟と出会い、感情その他のいろいろな経験を経てそれぞれ「猟師」を生き方にしている。生き方が変わってしまうほど出会ってよかったと思う営みを、人にも知らせたい、これを伝えたいと思うことに、なんの問題があるだろうか。そこまででなくても、SNSで自分の日常を表現して仲間と交流したいと願うことに、なんの罪があるのか。当然の権利ではないか。それに呼応して興味を持つ人が増える、そのつながりを制限する資格が、誰にあるだろうか。

私は「解体を見せることには正義がある」と言っているのではない。あくまで「解体を見せるな、と主張することが公正なのか」を問題にしている。「見たくない/見ない」と「見せるな」は全く違う。他人の自由に制限をかけるからには相応の理由がなくてはならない。

9.不条理と人間の成熟

「なんでこんな目にあうんだろう」「どうしてこんなことが許されるんだろう」、そう思ったことが一度もない人はいないだろう。人はみんな違うし、社会のあり方はしばしば私たちの理解や期待を裏切る。でも私たちは、不条理を通して初めて自分の理解の宇宙から一歩外に出て、他者の世界を知る。つまり、大人になる。

今回不条理を味わっているのは、児玉はもちろん、思いがけず逆に炎上したEvaも同じだろう。動物愛護の人たちはこれからも騒ぎ、猟師はこれからも燃える。必要なのは、それぞれの当事者だけの力任せのヘゲモニー闘争にまかせず、何が公正なのか、社会として共有する努力だと思う。

結局のところ問われているのは、動物の扱いではなく、人間の成熟ではないだろうか。(了)