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川崎病の発症から退院まで(後編)

5歳の息子が川崎病で3週間の闘病を終え、ようやく退院が決まった。前編では発症から入院、そして転院までを記した。とにかく伝えたいのは、高熱と発疹、リンパ節の腫れ、関節の痛み、目の充血、そして息子には大きく症状は現れなかったが「イチゴ舌(イチゴ様に舌が赤く発疹する)」などの所見がみられたら、躊躇せず医療機関を受診すべきということだ。

受診が早いと大きなメリットがある。心臓冠動脈への腫瘤形成のリスクがかなり低く抑えられるということだ。心臓冠動脈への腫瘤形成は、発熱後10日以内にどう治療をおこなったかに左右される。昔は川崎病と心臓冠動脈への腫瘤形成というところが紐づけられておらず、積極的な治療がおこなわれなかった時期もあるというが、今はとにかく早い解熱、早い炎症の消炎がリスクを低減するとわかっている。元日本代表のサッカー選手が2011年に急死した事例があったが、この選手も小児期に川崎病に罹患していたという。ことさら不安がる必要はないが、楽観もできない病という認識でいいと思う。

川崎病の発症から退院まで【前編】
https://note.mu/fujimani/n/nd4cbf6f93eb9

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7月1日(月)

早朝6時頃目覚める。妻と娘、揃って自宅で寝て、目覚めた久々の朝。発症から約10日。もっと長く経っているようにも感じるが、看病のために起きている時間が長いからそう感じるのかもしれない。

夜には特に緊急連絡などもなく、朝を迎えられたことにまず安堵する。妻は夜中に連絡がくるのではないかとあまりよく寝られなかったという。月曜日なので、娘を幼稚園バスまで送りに向かう。妻が体調が優れないというので、久々に自分が送りにいくと、そこには娘を代わる代わるで面倒を見てくれていた妻のママ友たちの姿。笑顔で迎えてくれる気遣いが嬉しかった。息子の容体を気にかけてくれるので、手短に話をする。あまり心配をかけさせたくはないが、かといって楽観して話すこともなんとなくできなかった。

帰宅し、食事。この日は仕事を自宅ですることにして、15時の面会開始ぴったりに夫婦で行くつもりだった。不安は、午前中に病院から電話がくること。容体が急変したり、発熱がぶり返す場合は次の治療に移る。重篤になるようなら、一足飛びに血漿交換をする可能性がある。その場合は、事前に連絡がくるということ。045からの番号の着信がないといいなと思っていた。

15時の面会に合わせ、早く見積もって13時半頃に家を出る予定だ。今日も娘は友達夫婦の家でお迎えから夕飯まで面倒を見てくれる予定になっている。そんなことを考えながら自宅で仕事をしていると、妻の携帯電話に着信。045からの番号。病院からの電話だった。慌てて電話に出る妻。表情が曇り、よくない電話だと察する。5分ほどの電話を切り、聞けば「昨夜は一時7度台まで下がったが、結局熱がぶり返してしまった。次の治療、シクロスポリンと免疫グロブリンの投与に移る」という電話だった。重篤な状況や、もっとも避けたい血漿交換に関する電話ではなかったが、良い報ではなかった。夫婦で少し暗い気持ちになり、面会までの時間が経つのを待つことになった。レミケードは効かなかった。7割がよくなる免疫グロブリンが効かず、その残り3割のうちの7~8割に効くはずのレミケードも効かなかった。それっていったい、何%くらいの確率なんだろう。変わった子供だっていう気はしてたけど、そんなところまで変わってなくていいのにね。そんなことを夫婦で話しながら昼食を食べる気にもならず、ちょっと早めに家を出ることにした。往路の車内は、「それでも一時期7度に下がったのはすごい。良くなってる」というポジティブなことを話すことに努めた。

14時半頃、病院に到着。横浜市立大学付属病院は、15時からの面会で、14時55分から受付を行う。面会者用の用紙を書き、時間まで病院隣接のコーヒーショップで時間を過ごす。余裕を持って着いたはずなのに、コーヒーショップでオーダーしたコーヒーが出てこないことに少し苛立つ。15分くらい待ったあと、店員に話すと慌てた様子でコーヒーを持ってきた。早く病室に行きたかった。

14時55分。面会者受付に向かうと、面会者のバッジを渡される。1番と2番のバッジだった。その後に慌てた様子で面会に訪れる人々が続いた。みんな、大切な人がこの病院に入院してるんだろうな。そんなことを考えながら、足早に小児病棟へと向かった。エレベーターで6F。降りて左手に向かうと小児病棟。右手に向かうと産婦人科。このフロアに降りるのはほとんど、子供や孫を持つ家族ばかりだ。小児病棟へ入る前に検温。無事に6度台。その日の体調を紙に書き、手を殺菌し、病棟へ入る暗証番号を打ち込み、病室へと足を向けた。初めての家族不在の夜。寂しさと、熱や痛みに耐えられただろうか。

病室のドアをくぐる。
病室には、思ったよりも元気にしている息子の姿があった。「おはよう」と声をかけると張りのある声で「おはよー」と返す。病室には保育士さんがつきっきりでいてくれた。「おはようございます。Kくん、今はちょっとお熱も下がってるみたいです。朝から犬のことをいろいろ教えてくれました」手には、世界の子犬が載った図鑑。「これはコーギーで、これはヨークシャーテリアで、これはミニチュアダックスで…」そんな風に、知ってる犬の犬種を次から次に保育士さんに話してたらしい。「カミちゃん先生(保育士さん)がいてくれたから寂しくなかったよ」そんな風に話す声にも昨日よりも力がある。ちょっとだけ安堵した瞬間だった。このまま良くなるように思えた。

とはいえ食べてない上に、体力も失っているし、両手足の痛みで動けないことは変わらず辛そうだ。この日は、妻が息子の好物の卵焼きを作って持参した。横浜市立大学付属病院は、入院している子供にはなんでも持ち込んで食べさせていいことになっている。ちょっとでも食べて体力を戻してほしいという配慮なのだろうか。チョコレートでもポテトチップスでもOKというのはちょっとびっくりだけど、子供には嬉しい配慮なんだと思う。卵焼きを2欠片ほど食べて、ちょっと落ち着いた様子だった。

回診。主治医の女医さんと、同僚や研修医と見られる医師総勢10名以上で病室に診察にきてくれた。朝の検査の様子も聞く。「昨夜、一時的に解熱したのですが今朝からまた8度台に戻ってしまいました。いま見るとそれよりは下がってるような印象です。何より、昨日よりも言葉数も増えて元気になってる様子なので、小児科では子供の元気な様子も重視しているんです。その点では、ちょっと良くなってきたのかなという印象です。心エコーも、今の所異常ありません。けれど検査の結果、CRP数値という炎症の状況を示す数値が昨日よりも高くなっています。今朝ほどお電話したようにレミケードが多少は効いたのだと思いますが、早く炎症を鎮めることを目的に、シクロスポリンと免疫グロブリンの治療に移行しました。藤沢市民病院の免疫グロブリンとは濃度が違い、投与の時間も全部終わるまで4時間ほどです。シクロスポリンは経口投与の薬なのでアスピリンと一緒に飲んでいただきます。まだ楽観はできない状態で、この数値が下がらないようであれば血漿交換ということも考えられます。このまま良くなってもらえればいいのですが」そんなことを聞き、感情はうれしくなったり不安になったり。どんな病症でも急変の可能性ははらんでいて、医師の立場で、楽観的なことを軽々しく言えないということ。知識としてわかってはいるけれど「もう大丈夫です」の言葉が聞ければよかったのにな、とかそんなことを考えていた。

免疫グロブリンは人の献血から作られる血液製剤で、粘度が高い薬剤なので連続投与が難しいのだという。レミケードを挟み、当初効かなかった薬を再度投与する、ということに疑問を持つ人もいるというが、シクロスポリンという保険適用外の新薬が劇的な効果を上げてくれればいいなと思っていた。

18時。夕食が届く。もともと偏食で野菜の類を食べない息子だが、発熱以降大好物だった白米も敬遠するようになっていた。しかしこの日は「のりたま」を持ち込み。ひさびさに白米をよく食べた。食欲が戻ったことに、夫婦で少しほっとした。

この日もまた夜が来る。20時で面会は終了。ぐずる息子に言い聞かせて、昨夜と同じようにナースコールを手に握らせて、病院をあとにした。21時までに、友人夫婦のところに娘を迎えに行かなければならない。車で45分。「でもちょっと、良くなってたよね」そんな風に、少しだけ夫婦の間でも笑顔を交わすことができた。

7月2日(火)

この日も朝6時頃に目覚めた。疲れはあるはずだが、寝入りが良いので目覚めは早い。この日は妻が幼稚園に子供を送り、自分はたまった仕事をこなしながら午前から昼過ぎまでを過ごす。昨日と同じスケジュールで、15時ちょうどに面会に行く予定だ。045からの着信にだけ神経を尖らせていた。

結局着信もなく、15時に病室へ。そこには昨日よりももっと元気になった息子の姿があった。

熱も7度台に下がり、関節の痛みも和らいできたようだ。何より、顔の力強さが違う。朝の採血の結果も、CRP数値は横ばいだが、心エコーは問題ないという報告。手も足も、昨日よりもちょっとずつ動くようになっているようだ。食欲も戻ってきて、レントゲンで発覚した肺に溜まった水もこの時点でだいぶ抜けてきた。ようやく、峠を超えたなという実感が持てた瞬間だった。

息子はといえば、「おカゼはやく治らないかな〜」とのんきに病室に飽きた様子。主治医が「もう少し良くなったらプレイルームにいけるよ。おもちゃもたくさんあるんだよ〜」と言ってくれた言葉を励みに朝の採血や検査をがんばっているようだ。15時からしか面会にいけないので午前中の様子はうかがい知れないけれど、とにかく痛いのにも耐えて頑張っているようだ。この後、数値が良くなれば点滴が取れ、個室から相部屋に移り、経過観測をしていくという。「まだ血漿交換の可能性がなくなったわけではありません」という主治医の言葉にギクリとするが、このまま良くなってくれると思っていた。そう信じたかった。もうそろそろ、期待を裏切るようなことは起きてくれるな。そんな気疲れからの期待感もあったのかもしれない。

7月3日(水)〜10日(水)
退院

結論からいうと、うちの息子に関してはこのまま容体が悪化することもなく、藤沢市民病院で4日。転院先の横浜市立大学附属病院で10日の、丸々2週間の入院期間を経て、無事退院することができた。後半の6日間は相部屋に移り、退屈と検査と戦った平和な6日間だった。しかしその間にも、数値は増減し、結局退院に至っても関節炎は完治とならず。心臓冠動脈の肥大という川崎病のもっとも考慮すべき部分に関しては現時点で心配するほどの影響はないということだったが、今後も経過観察が必要ということだ。

退院の日。仕事が重なってしまい自分自身は立ち会うことはできなかったけれど、妻と息子が多くの看護師さん、保育士さんに見送られ退院をすることができたという。会計は、藤沢市の小児医療助成制度が横浜でも適用され、2万円程度。車で昼過ぎに迎えに行くと、ひさびさに外を歩く息子の姿。2週間の入院で筋力が落ちたのか、関節炎の痛みがあるのか、少しぎこちない歩き方だが元気そうだ。ようやく心から安堵できた瞬間だった。

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今回のことは我々家族にとって突然の出来事だったが、子どもを持つ親には誰にも起こり得ることだと思う。川崎病は原因不明の病気で、年間の発症症例数は1万から1万5000件ほど。基本は乳児で、10歳までで罹患率はほぼ0%になるというが、今回の件があり「川崎病」というキーワードが周囲に伝わると過去に自分自身や、子供や、親族などが罹患したという人の多いこと!体感では、「罹患者の多い病気」という印象だった。

ただ多くは免疫グロブリンの投与で解熱・治癒に向かうということなのだが、そのうち免疫グロブリン製剤不応という息子のようなタイプが15%ほどいる。症例でいうと年間約1,700人ほどということだが、このタイプの親となってしまった夫婦は我々のように不安な日々を過ごすことになるだとう。

さらに言うと、本来はそのタイプにはインフリキシマブ(商品名レミケード)が効果を示すのだけれど、それも効かない息子のようなタイプもいて、このタイプの治療法は2019年現在に於いて確立されていない。

公益財団法人難病情報センターにも「標準治療である初回超大量免疫グロブリン(2g/kg/回)静注療法(IVIG)に難治の川崎病の治療法は標準化されておらず、病院、医師の間で混乱している」(出典/ 公益財団法人難病情報センターと書かれている。調べてみると、ステロイドを用いる場合や、再度グロブリンを用いる場合など様々。

神奈川県に住まい、横浜市立大学附属病院でシクロスポリンの治療研究が行われており、費用負担なく保険適用外の同薬剤の投与が行えた我々夫婦と息子は、幸運だった。

今回、「免疫グロブリン大量療法(IVIG)不応型」や「重症川崎病」と称される病気に罹患した子供の親となり、できる限りの情報を共有したいという想いで本記事を書いた。今回関わったどの医療機関も、医療関係者も、子供の負担を軽くし、なるべく早く治してあげたいという思いで最善を尽くしてくれたと親の立場で感じる。特に藤沢市民病院で最後の採血を担当してくれた男性の小児科医の先生、何度もナースコールで呼び出してしまった男性看護師さんのお二人と、横浜市立大学附属病院で息子を見守ってくれた保育士さん、柔らかい物腰で的確な治療を進めてくれた主治医の女医さん。藤沢市民病院、横浜市立大学附属病院の小児科のみなさんには感謝しかない。本当に、感謝を申し上げます。

最後に記すこととしては、入院の「付き添い」に関してのこと。我々は望んで付き添いをしたが、息子の容態を目の当たりにして混乱し狼狽した。やはり冷静な経過観測や判断をすることができない立場なのだと思う。とはいえ、熱で苦しみ心細い思いをする息子を置いて帰ることもできなかった。おそらく、横浜市立大学附属病院で付き添いが許可されていれば迷わず付き添いをして泊まり込んだだろう。けれど、その結果さらに多くの負担が家族にのしかかっていたことは想像に難くない。病院の方針にもよると思うが、医療機関に委ねるという判断も必要なのかもしれないという、わずかな経験での考察を記して、この記録を終えます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
(三浦 悠介 拝)

退院の日の息子

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