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死ぬことを意識すると、行動がシンプルになるのかもしれない。

 わたしのまわりにいる、あのとき死にそうな体験をした、あるいは死のうとしていた、という人は、概してバイタリティに溢れた動きをしていることが多い(本当に辛い人は見えづらい、ということはあると思うけれど)。

 そしてそれらの人は、社会の枠組みにとらわれずに動いているように見えることが多い。

 なぜなのか。

 ひとつは、死を意識することで生をクリアに捉えられるようになったのではないか、ということだ。人は終わりがあってはじめて、使えるものをどう使うかを考えられるのかもしれない。

 そしてもうひとつは、自分を死に至らしめそうになった社会や環境へのゆるやかなアンチテーゼが起こっているのではないか、ということだ。それらの人たちは、離婚、失業、家族の離散、犯罪、なんらかのネガティブな出来事を乗り越えてきている。

 死ぬことへのあきらめ(誰しもがいつか死ぬということの理解)と、今の社会構造へのあきらめ、それらのあきらめこそがむしろ希望を生む、という逆説が起こっているように、わたしには感じられる。

 それは、今までのこだわりを捨てるということであるし、また、別のこだわりを手に入れるということなのかもしれない。

 話は変わるが、仏教の世界ではあきらめるという言葉はポジティブな意味で扱われている。諦める、諦観するということは、本質を観る、つまびらかにするということである。

 それは、窮地に至ったときにはじめて、人は悟ることができるということを、わたしたちに示しているのかもしれない。

 死についてゆるく語る会というクローズな会を開いて、半年ほど経った。その流れの中で、祖母が亡くなったり、身近な人が亡くなったりしている。

 僕もしっかり死ぬ。死ぬまでに何ができるかわからないけれど、がんばろう。

 写真は、セミナーの参加者のお子さんからもらったこの日のギャラ。よくぞ、ぼくの趣味を。

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