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文読む月日 1月4日

SEMENTOS Gt.Vo / NINE SPICES 店長の藤村です。
前回の2月号冒頭で、一体どんな風になっていることやらと言ってた俺に言ってやりたいことは、緊急事態宣言は延長されてまだまだ渦中ですよってことと、Youtuberになってますよってことですね。


NINE SPICESのYOUTUBEチャンネルで、新しくインタビュー&ライブ番組「九香電波 - koconoka waves」というのやってますので、暇なときにでも観てくださいねー。あと出演バンドも募集してます。宣伝すんません。

はい、それから宣言どおり新しい本を読みました。
またしても家の近くの本屋にてジャケ買い的に購入しました。
面白そうな本売ってる本屋が近くにあって嬉しい。


日本の哲学者「國分功一郎」さんと、医者であり当事者研究をされている「熊谷晋一郎」さんとの議論及び講義の記録をまとめた「<責任>の生成」という本になります。
どちらも東京大学の教授をされているようです。
ジャケ買いなので、どちらの方のことも全く知りませんでしたが、めちゃくちゃに面白かったです。

内容としての最終地点は、タイトルどおり「責任」とはどういうときに生まれるのか?ということに繋がっていくんですが、自らも脳性まひという障害を持つ熊谷さんの当事者研究を通じての話と、國分さんの哲学の間に生まれていく仮説が、興味深過ぎて、まじで読みながら何度も興奮しました。

その2人の議論の中心に「中動態」という考えがあって、特にそこに衝撃受けました。
「能動態」と「受動態」という「態」というものを学生の頃英語の文法とかで習ったことがあると思うんですが、要は「する」と「される」ってことですよね。二つは今で言うと対極に位置する意味を持つ言葉になります。
そこに「中動態」っていう「態」がその昔あって、その意味を元に色々な問題を紐解いていくんですね。
「中動態」があった時代では、「能動態」と対になるのは「受動態」ではなく「中動態」でした。

ただ、ここでの「能動態」というのは今でいう「する」という意味とは少し違い、「主語から出発して、主語の外で完結する過程」ということになります。

それに対し「中動態」というのは、「主語がその場所となるような過程、要は主語が過程の内部にある」という意味になります。
絶対分かりづらいと思うので、例をあげると「惚れる」という言葉は中動的な意味になります。


何故かというと「惚れる」というのは、自分が相手を好きになる、ということなので今で言えば能動的になりますが、それは、自ら進んで相手を好きになるというわけではなく、相手に魅了されたことによって好きになるということになります。

魅了された、ということは受動なわけなんですが、相手に命令されて好きになったわけではないですよね?
でも好きになったのは自分なわけです。


・「自分で相手に惚れようとするわけではない = 能動ではない」

・「誰かに惚れることを強制されているわけではない = 受動ではない」
・「惚れるということが、自分を場所として起きている = 中動である」

ということです。

これだけじゃ分からないと思いますが、中動的な考え方を元にすることで、色んな物事の見え方が変わったり、自分に置き換えてみてもすっきりした部分が沢山ありました。

是非読んでみてほしいですね。超絶オススメです。

自分はもう興味津々過ぎて、國分功一郎さんの著書「中動態の世界」も買いました。
来月はそのことについて書こうと思います。

コラムが連載のおかげで、本を買うことになったというのも中動的ですね。
完全に中動態のとりこです。

うざかったらすんません。

ではまた来月、よろしくどうぞ。

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