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トンカツぐらいがちょうどいい

 小学五年生ぐらいの頃、国語の授業で漫画のオノマトぺを勉強する授業があり、先生がいくつか漫画の本を持ってきて、そのうちの一冊をもらったことがある。オノマトペの授業の後に返却しようとしたら、持っていっていいよと言われ、そのままもらったものだ。

 それは、人気料理漫画「美味しんぼ」から、洋食関係のエピソードを厳選したコンビニ本であった。
 今はもう手放してしまったが、僕はこの本で、オムレツを作るときは、卵を焼くためだけのフライパンを用意しなければいけないことや、いくら品質のいいパティを使っていても、挟むパンがお粗末だとハンバーガーが美味しくなくなること、生牡蠣にはワインより日本酒が合うこと、ステーキのレアは両面を強火で焼き、中を温めるように焼くと美味しくできることなどを知った。
 その中でも、僕の心の中に深く突き刺さったいる言葉がある。それが載っていたのは、「美味しんぼ」の中でも名エピソードと言われる、「トンカツ慕情」というエピソードだ。

 スーパーマーケットチェーンのオーナーである里井新一から、青年時代に食べた定食屋のトンカツをまた食べたいという依頼を受けた主人公、山岡士郎と栗田ゆう子は、その定食屋を経営していた老夫妻、中橋夫妻を見つけ、そのトンカツを作ってもらおうというお話である。

 テレビアニメにもなっているようなので、公式YouTubeチャンネルで公開されているアニメ版を掲載させていただこう。

 僕が小学生ながらに感動した言葉は、トンカツの味を聞かれた里井が語った、貧しい青年時代の回想シーンに出てくる。
 冬の渋谷で貧しい暮らしをしていた里井が暴漢たちに襲われていたところを、一人の男に助けられ、その男が店主として経営している『トンカツ大王』へと運び込まれた。
 暴漢に給料を盗られ、一銭もない里井に、店主はトンカツ定食をご馳走し、定食を美味しく頬張る姿を見ながら話していると、奥さんが「勉強して偉くなって頂戴よ」と言い、店主はそれに付け加えるかのように「なあに、人間そんなに偉くなるこたぁねぇ、ちょうどいいってものがあらあ。」と語り、さらにこう続けた。

「いいかい学生さん、トンカツをな、トンカツをいつでも食えるくらいになりなよ。」
「それが、人間えら過ぎもしない、貧乏すぎもしない、ちょうどいいくらいってとこなんだ。」
と。

 初めて読んだときは、それが人としてちょうどいい生き方なんだなぁと漠然と思っていたぐらいだったのだが、今では、これが人として、ある程度正しい生き方なのではないかと感じるようになった。

 僕は時々、生きるためには一体、いくらお金が必要なのだろうと考えることがある。
 もちろん、お金はあればあるほどいい。食うに困ることはないし、何十億、何百億、ぶっちゃけ手に入るなら、日本の国家予算にも匹敵する、100兆円以上あれば、いろんなことができるだろう。
 しかし、物を交換するために使うただの金属片や高級和紙、液晶画面に表示されたただの数字の羅列をそんなに独り占めしたところで、使い切れるわけがないし、それを全て何かしらの物に交換したところで、家がゴミ屋敷になるだけである。

 それは人格にも影響する。ひもじいままだと、盗みをしながら生きていかなければいけなくなるし、巨万の富を得て好き勝手にしていると、ただ金にモノを言わせて傍若無人に振る舞う、孤立無縁の嫌な人間が出来上がるだけ。
 そんな人生は、果たして幸せだと言えるのだろうか?
 心に孤独感を抱えたまま、短い人生を終えてしまうだけなのではないのか?

 そう考えると、お金というのは、少な過ぎはもちろん、多過ぎても不幸にしかならないことがよくわかる。なら、どのぐらいがちょうどいいのだろう?
 その答えこそ、小学生の頃、偶然手に入れたこの漫画に、全て描かれていたのである。

 ただが人間一人が生きるのに必要なお金なんていうのは、実際のところ、ラードで綺麗に揚げた、香ばしい匂いが漂う美味しいトンカツ定食が、いつでも食べられるぐらいの余裕さえあれば、どうとでもなるのではないだろうか?
 多くの人がそのように考えることができれば、自らの才能で、明日食うのにも困る人々から利潤を吸い上げ、高級品で身を飾るよりも、ずっと幸福に暮らすことができるのではないか?
 そうして、偏った富を分かち合い、一人一人がお互いを理解し合うことが、人間という、巨大な脳を持った、二足歩行ができる生命体として、最も自然に近い生き方なのではないだろうか?

 あの言葉には、人が人らしく生きるための、答えのようなものが描かれているのだと考えている。
 それを忘れることなく、これから先の人生を生きていきたい。

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