2021年7月21日、『エヴァンゲリオン』の卒業式に行ってきた。


というか、今日(2021年7月21日)がほとんどの映画館での終映日だったので、観た、見届けてきた、というだけの話なんですけどね。


※映画のネタバレありなので、未見の方は御注意ください!!


3月に一度観ていたので、今回が2回目の観賞です。

あらためて考えてみると、僕は50年近く生きてきて、映画館で同じ映画を2回観たことって、なかったんですよね。気に入った映画を何度でも観る、という人もいるけれど、僕は同じものを繰り返し観るのは、時間もお金も勿体ないような気がしていたのです。ソフト化されたものや、テレビ放映された際に観ることはあるけれど、面白かったものはもう一度観て感動が薄れるのがイヤだし、つまらなかったものはわざわざ繰り返しては観ないし、というのもあります。でも、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』に関しては、なんというか、「ちゃんと卒業しておきたい」と思ったのです。

最終日の最後の回……もしかしたら満席とか……いや、平日だし、そうやって身構えていったらガラガラだった、ということもありえるのでは……ここは東京のファンが集まるような映画館じゃないしな……

そんなことを考えていたのですが、お客さんは100人くらいで、「かなり混み合っているが、満席ではない」くらいでした。きっと、「卒業」しに来た人もたくさんいるのだろうなあ、あるいは、これが初見、という人もいるはずだよなあ。

まあでも、正直言って、これまでのポリシーを曲げて2回目を観るかどうか少し迷ってもいましたし、迷っていたところに「8月13日から日本のAmazon Primeでも配信開始!」というニュースも飛び込んできて、「もうそっちでいいかなあ」とも思ったんですよね。

でも、結果的には、やっぱり映画館で見届けてよかった。

上映後の拍手もない、ごくふつうの上映だったのだけれど、ひとつ気が付いたことがあるとすれば、155分という長い映画で、多くの人が何度目かの観賞だったであろうにもかかわらず、上映中、程よい緊張感が、ずっと劇場内に満ちていたことでした。

僕たちは、この物語が、悲惨なエンディングにはならないことを知っている。知っているからこそ、少しリラックスして観ることができる。

初見のときの「物語と決着をつけてやる、という緊張感」よりも、ひとつの時代の終わりをこの場にいる人たちがみんなで見届けている、という不思議な連帯感に満ちた空間がそこにはありました。

しかし、4か月前に観た映画のディテールを、ここまで忘れているとは思わなかった。人間の記憶ってそんなもので、本とかも、読んで1週間くらいでほとんど内容を忘れているものなあ。

第3村での生活のシーンはけっこう覚えていたのだけれど、初見のときよりもシンジはあっさり復活したように感じたし、後半の人類保管計画の完成を巡るシーンは、やっぱり、何がなんだかよくわかりませんでした。いや、よくわからないからこそ、観直しても面白いというか、飽きないところもありますね。なんなのその裏世界とか新しい槍が生まれる仕組みって。

クライマックスのシンジとゲンドウのやりとりには、2度目で少し余裕を持ってみると、「なんて周囲の人々にとっては迷惑な『セカイ系』なんだ!」と可笑しくもなったのです。他人が場面に応じていろんなことを言っていて、ときには正反対のことを口にしていても、その人にとっては「そのときどきの真実」である、ということにウンザリしていた、というゲンドウの話、わかるなあ。

自分のペースで付き合える『知識を得ること』や叩いた鍵盤に忠実に反応してくれるピアノだけが信じられた、というゲンドウの言葉には「あなたは私ですか?」と今回も思わずにはいられませんでした。僕も学校の休み時間に人と接するのが苦手で、本をずっと読んでいた子供だったからさ。僕にとっては、ピアノじゃなくてマイコンだった。

「自分をもっと素直にさらけ出せていたら、もっと違った生き方ができたはずなのに」

僕の年齢になって観ると、ゲンドウの素直になれない気持ちに共感するのと同時に、人間って、とりかえしがつかなくなってから、自分の選択肢が間違っていたことに気づくものなのだよな、と考えずにはいられないのです。

あのとき、もっと「素直」に「正直」になれていたら……

今、50歳くらいの自分の精神状態で、20歳(30歳でもいい)の頃に戻れたら、人生もうちょっとうまくやれたはずなのに……

でも、人生にセーブポイントはないし、リロードしてやり直すこともできない(本当はできる人がいて、どこかで違う僕がいるセカイを生きているのかもしれないけれど)。

自分が自分であるかぎり、失敗した記憶を持ったままでロードしてやり直せないかぎり、僕は、何度あのときに戻っても、たぶん同じ過ちを繰り返したのではなかろうか。

最近、よく思うんですよ。人って、結局のところ、みんな「こういうふうにしか生きられなかった」のではないか、って。

そういうのも、僕自身への言い訳だったり、理不尽に大事な人を奪われたりした経験が少なかったしするからではないか、とも思うのだけれど。

この『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は、ディテールはよくわからないにもかかわらず、なんだかとても心地よいところに着地してくれた作品だと感じます。

その一方で、このトゥルーエンドがよくできているがために、これまでのTV版や旧劇場版の碇シンジという少年の彷徨が、「ミスしてゲームオーバーになった失敗例」のように見なされてしまうのではないか、と、せつなくもあるのです。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は、フィクションとしての「落とし前をつけた」素晴らしい作品ですし、庵野秀明監督自身も、還暦を迎えて、『エヴァンゲリオン』という、あまりにも大きくなりすぎた存在の創造主として、登場人物たちに「落とし前をつけた」のだと思います。

いやしかし、あの場面で、ユーミンの『ボイジャー』とか、まさに1980年代だよなあ……ど真ん中すぎて驚きますよね。映画のクライマックスのはずなのに、自分の学生時代のさまざまな出来事が次々に頭に浮かんできました。

ああいう選曲ができてしまうのも、受け入れられてしまうのも、われわれが「大人になった」からなのではなかろうか。良くも悪くも。

僕自身も、これで「見届けた」気分になりました。

この作品のなかで、庵野秀明という人は、興ざめだと感じてしまうギリギリのところまで、「これはフィクションなのだ」という場面を挿入しています。

というか、いま、2021年だからこそ、あの『エヴァンゲリオン』だからこそ、観客も、こういう「メタフィクション的」というか、登場人物も自分がフィクション的な存在であることに勘付いている物語」への抵抗感が薄れているのです。

ほとんどの観客は「ウソをウソだと見抜くことができるし、見抜いていながら、そのウソにうまく乗っかって、楽しめる」くらい大人になりました。

それは、「現実のほうが、むしろ、フィクションに近づいた」とも言えます。

人々は、ツイッターやインスタグラム、YouTubeで「演じている人々」を、それと知りながら、機嫌が良いときには「騙されてあげる」し、気に入らなくなると、「ウソばっかりつきやがって!」となじる。

あらためて考えてみると、作中でここまで執拗に「これはフィクションですよ!」と言及している『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』に、『ダンガンロンパV3』のときのような、あるいは『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』のような批判が起こらなかったのは、意外な気もします。


それが「作品のクオリティの差」なのか、「後味の良い終わりだったから、途中経過は許す!自分たちも何十年も付き合ってきたものは、良質だったと信じたい!」からなのか。

結局のところ、「理由や他の作品との違いなんてわからない。好きなものは好き」なだけなのかもしれない。

「まあ、君たちもそろそろ『卒業』して現実を見なさいよ」ということなのでしょうし、僕自身も、自分の人生に「落とし前」をつけなくては、と思ったのも事実です。

二度目、少し落ち着いて観ると、前半部の第3村で描かれていた「肉体労働やエッセンシャル・ワークの素晴らしさ」の描写には、庵野監督はずっと「フィクション」を愛し、それを描いて讃えられてきた人なんだよな……という「あなたがそれを言うのか感」はあるし、旧劇場版で、瀕死のアスカに欲情してしまうシンジの「情けなくていたたまれないけど、小声で『わかる……』と言わざるをえない姿」のほうが「現実的」じゃないか、とか、そんなことも考えてしまいました。

僕は『エヴァ』から「卒業」するつもりで、今日、映画館に行きました。

でも、なんだか、『エヴァンゲリオン』と庵野秀明監督のほうが、僕から「卒業」していって、僕は式場にひとり取り残されてしまった、そんな気もしているのです。


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