第五節 市区改正の準備(P49-60)

工学会(1927)『明治工業史 建築篇』
第一編 建築沿革一般
第一章 維新前後の建築及び関係事件

第一 市区改正の着眼

 東京横浜間の鉄道将にならんとして、東都の玄関今や正に空前の姿を出現せんとするに先立ち、時の政府は先づその玄関に接する市街を改正し、洋風家屋を建設し、尚お都下主要なる街路を漸々改良せんとする企図を懐きたり。

 是に於て早くも明治3年には新橋を改架し、旧来に例無かりし鋳鉄手摺附の橋となしたるが如きは、真に着眼宜しきを得たりと謂うべし。後明治6年に万代橋、同七年に浅草橋を改架し、我国未曽有の大石橋となしたる如きは、何れも同一方針に出でたるなるべし。その万代橋の如きは、二連の半円迫持を有し、水に映ずる影と併せて二連円形をなせるをもって、眼鏡橋と俗称せられ、永く東都の一名所たりしなり。是れ即ち明治末葉における神田昇平橋の附近にありたるものにして、大正年代の万世橋所在点より北方に在りき。

 因に筋違の眼鏡橋は最初万代橋と称し後万世橋と書するに至れり。明治7年4月14日の公文書には府下筋違万代橋際大職省租税寮出張所とあり。而してその後間も無く発せられたる公文書には筋違万世橋際とあり。されば万世橋を記するに至らしは明治7年頃なりしか。

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第9図 万代橋の図

 改築の比較的容易なる橋梁の如きは、既に斯の如く着々改造の気運に向えり。然れども家屋の如きは之と異なりて、多数人の利害に大関係あるものなれば、政府は容易に決行すること能はざりしなり。況や当時庶民は商店住家の別無く旧習に慣れ、碧眼紅毛者流の住居方法の如きを快とせざるにおいてをや。これ明治初葉における市区改正に横はれる障碍物たりき。当時為政者の苦心察するに余りありと謂いつべし。

第二 明治5年2月大火の影響

(一)工部省の類焼

 明治5年2月26日、午後和田倉門内会津侯邸跡当時兵部省添屋敷より出火し、折柄の大風にて遂に大火となり、新橋京橋間は勿論その他木挽町に伝播し、終に築地海岸に至りて熄(や)みたり。この如く猛威を逞しうしたる祝融氏は風伯氏と力を合せて築地本願寺及び築地ホテル館等の大建築をも烏有に帰せしめたり。尚ほ類燃町数は24箇町なりきと。その時工部省もまた類焼の厄に罹りぬ。当時の工部省は虎の門内に在りしこと次の公文書により之を知ることを得べし。

(中略)

 此の如く工部省は26日夕刻遂に類焼せしを以て、差向の同省勧工寮が虎の御門外に在りしを幸に、早速同寮内に本省を設くることになしたり。之に関する公文書左の如し。

(中略)

 これ即ち焼失届なり。之に対し正院の史官よりの受取は

(中略)

 右の如く焼失届は工部省よりして届出でたるが、移転先に付いては山尾少輔より届出でたるこさ次の如し。

(中略)

 是において工部省としては、今後新築せざる可からざるに付、その費用に考を及ぼすべきこと勿論なり。よって早速次の如き文書を大蔵省に発し定額外の支出を要求したり。

(中略)

 然るに大歳省も然る者、早速快諾せりとは回答せず。甚だ婉曲なる文句を弄し、工部省を苦めたるが如し。尚お回答中の文句を察するに某の地に諸官庁を一纏めに建築するの考案も既に政府部内にありたるやに察せらるる節なきに非ざるなり。2年の後即ち明治7年には皇城内本丸に諸官庁を纏めるとの公文書ありし程故に、明治5年にも一纏め案を抱きし者、政府部内にありたるならんか。兎に角大蔵省側よりの公文書は次の如し。

(中略)

(二)市区改正の促進

 東京の市街改正に関して政府は明治5年左の如き通知をしたり。こは実に明治5年2月の大火災の結果なり。是れ所謂禍を転じて幸となすの類か。従来蟠(わだかま)れる妨礙(ぼうがい)も大火の為めに忽然一掃され、改築実行を容易ならしむることを得るに至れり。されば改良進步の為めに天は常に災害を下すならんか。吉凶禍福は真に糾(あざ)える縄の如しと謂いつべし。

(中略)

 この通知を受けしは大火ありてより五日なりき。而して通知の主意は府下全般に捗る事にして、単に京橋以南のみの改築に関するに非ざることは勿論なり、唯この好機を失せざるやう急速に通達せしたり。是において東京府知事もまた何をか猶予すべき。敏速に万事を処置し、翌3年13日左の如き布達を発し、各町民の向う所を明かに示指したり。

(中略)

 以上は大火災より僅に一ヶ月の後に発せられたる布達なり。当局者の鋭意事に当り、迅速改築の道を拓きしことは、後世の好亀鑑たり。さて右布達を玩味するに壁厚煉瓦一枚厚一枚半厚及び二板厚を図示し、孰れもフレミッシ、ボンドとなせり。而して第七項に述べたる、イイイとはブレーキ、ジョイントを示してそのロロロは羊羹を示せり。

 最後の条項において軒先の構造を述ぶるに当り、当時の翻訳者がパラペット、ウォールを欄囲と訳したるは大に感服すべき事なり。またその当時既に鉄葉をブリキと言いたり。次にモルタルとは石灰モルタルのことにして、その調合は第二項に一と三の割合と規定しあり。

第三 京橋以南改築の管掌官庁

 京橋以南改築事業に関しては、大蔵省と東京府とにおいて分担して、実施の任に当れり。然れども実施後、分担は甚だ不便を感ぜしか、職掌分限定則を明治5年6月に定めて僅に一ヶ月に満たざるに、翌7月には早くも建築工事は大蔵省の管掌に移されたり。

(中略)

 斯くて建築工事は、総て大蔵省土木寮建築局において施工の任に当りたり。是において建築局にては着々工を進め、終に翌明治6年10月を以て京橋以南大通り筋の建築を落成せしめたり。よって当局者の予期通り京橋新橋間の大街路は我が国未曾有の新式市街となり、步道車道整然として飾るに並木を以てし、左右を望めば何れも煉瓦造にして柱廊を前面に設け、端然たる屋宇の櫛比するを見得るに至れり。

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第10図 銀座通の図

 然れども中通及び横道に至りては、改築の道程甚だ遅々たりしなり。蓋し庶民は煉瓦家屋を建つることを好まず、苦情百出して大に当局者を脳ましたり。而して苦情を沈圧するの任は東京府にありて、大蔵省は工事と経済を司りたるのみなりき。職掌分限定則に左の如き条あり。

(中略)

 明治7年1月より諸官省の建築工事は、総て工部省の管掌に帰したる結果、京橋以南の改築工事者また同省において担当する所となり、同省は木挽町に出張所を設け建築局をして施工の任に当らしめたり。後同局は営繕局となりたり。

第四 改築事業の困難

 さて前述の如く京橋以南の大道路に面する建築及び道路の改通は順調に竣工したり。然るに同一建築方法により順を追うて中通及び横道に及ぼんさんとしたるに、工事進捗前に忽然として障碍の横はるを見るに至れり。即ち一般住民が、煉瓦造を喜ばざると貧民が納金に苦しむに至りたる等のことなり。その事項については第二章において述ぶる所あるべし。

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