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[コラム] 古典落語の「オチ」が生み出すわくわく感

やっぱりさんまは目黒にかぎる

これは,「目黒のさんま」という古典落語のオチです。古典落語が好きな方は,このオチをすでによく知っています。

「1回目のオチ」と「2回目からのオチ」

多くの方はこのオチをはじめて聞いた時,「なるほど!」「そうきたか!」と感じたと思います。しかし2回目からは,「なるほど!」「そうきたか!」とは思いません。オチを知っているので当然ですが…

結末が分かっている推理小説を読んでもあまりおもしろくありません。それなのに「先に犯人を言ってしまう」というひどいことをする人も時々います。それと同じで,「オチが分かっている話を聞いてもおもしろくないだろう」と思われる方もいるようですが,そんなことはありません。なぜなら,「オチを知らない話」と「オチを知っている話」とでは,聞き方・楽しみ方が違うからです。

オチを知らない話の場合,「『なるほど!』と思わせてほしい」という気持ちで聞いています。一方オチを知っている場合は,「あのオチを言ってほしい!」という気持ちで聞いています。オチが近づくにつれ,「来るぞあのオチ。来てくれあのオチ」という独特のわくわく感が生じます。当然ですが,噺し手は期待通りそのオチを言ってくれます。そして,「何度聞いてもいいオチだなぁ〜」というなんともいえないあの満足感に満たされます。この感覚はとても心地いいものなので,何度も聞いた同じ話でも「また聞きたい」と思うようになります。

推理小説などは,結末が分かってしまうと,1回目のあのわくわく感はもう二度と味わえません。2回目からは,「1回目に見落としていたこと」や「結末が分かったからこそ気づく伏線など」を見つけるといった楽しみ方がありますが,1回目のわくわく感と比べると相当減少するので,「もう一度読んで見ようかな」と思って読み始めたのに,「知ってるからなんかつまらないな」と思ってやめてしまうこともあります。

一方,古典落語の「あのオチを言ってほしい」というわくわく感は,1回目の「どんなオチが来るんだろう」というわくわく感に引けを取らない,場合によってはそれを上回ることさえあります。だからこそ,同じ推理小説を何十回も読むことは難しいのに対し,古典落語は何十回も何百回も聞くことができます。もちろん,同じ演目を違う噺家さんが個性豊かに演じてくださるというのも大きいのですが,それも含めてこれは古典落語の強みです。

古典漫才でこのわくわく感を味わおう!

推理小説において古典落語と同じこのこのわくわく感を生み出すことはできないかもしれませんが,漫才なら十分可能だと思います。それなのに,「今漫才界ではそれをほとんどやっていない」というのはもったいないことだと思います。

もちろん,落語と漫才は全然違う部分があり,課題もたくさんありますが,まずはこの取り組みを始めるべきだと思います。わたしはフリー台本をアップし,細々とこの活動を続けています。

漫才作家も漫才師も,それぞれの立場で「古典漫才」というジャンルを確立するためにできることがあります。漫才作家であれば「話の筋とオチがしっかりした台本を書いて,フリー台本として提供する」,漫才師であれば「そのネタを自分たちなりに解釈して演じる」。これをやってくださる方が増えれば増えるほど,いつかそれが「古典漫才」と呼ばれるようになると思っています。

漫才でも,「何度も聞いたけどまた聞きたい!」と思ってもらえるようなネタが増え,「何度聞いてもやっぱりいいオチだ。あのオチを言ってほしい!」という聞き方をする人が増え,それが永遠に語り継がれ,結果として「古典」になる日が来ることを強く願っています。

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落語や漫才のあらゆるオチを誰よりも先にNFT化し,落語や漫才やコントなどを作る際の元ネタとなる令和版『醒睡笑』を作っています 脳トレ&遊びながら落語NFTがもらえる『オチ当てクイズ🎯ゼツミョー大賞🏆』という企画もやっています