漫才論| ³³漫才は死ぬほど練習すべき❓
漫才の練習量については,「死ぬほど練習したほうがいい」という意見と,「練習しすぎないほうがいい」という意見で,真っ二つに割れていますが,私は死ぬほど練習したほうがいい派です
「練習しすぎないほうがいい」という意見についてはこちらをご覧ください
"練習量が見え見えの漫才"
になってしまうのでは?
「練習しすぎると"練習量が見え見えの漫才"になってしまう」という意見もありますが,そうなってしまう真の原因は,「練習のしすぎ」ではありません
原因の一つは,「演じ方」の問題です。台本通り演じていても,まるで今初めて聞いたかのように演じる力があれば,"練習量が見え見えの漫才"にはなりません
もう一つは,「相槌」の問題です。台本には書いていない相槌を自然と入れることができれば問題ないですが,"絶対漫才感"がなくこれが苦手な場合には,「決まったセリフを機械的に言っている感」が出てしまい,"練習量が見え見えの漫才"になりがちです
そしてもう一つは,「アドリブ力」の問題です。アドリブ力があれば,台本通りにセリフを言う場合でも,その場の雰囲気に合わせてしゃべります。この力がなく,いつでもまったく同じ言い方しかしないコンビの漫才は,"練習量が見え見えの漫才"と思われる可能性が高いです
「アドリブ」は練習の賜物
元々アドリブが得意な人もいれば,苦手な人もいますが,どれほどアドリブを入れられるのかは,練習量にもかなり依存しています
「アドリブを入れる」ということは,台本とは違うことを言ったり,場合によってはかなり脱線したりすることを意味します。「どこまで脱線するか,どこでどうやって戻すか」という二人の駆け引きが漫才をより活き活きとしたものにしてくれるわけですが,練習すればするほど,元の台本を自由自在に崩して演じることができるようになります。練習量が足りないと,アドリブを入れることでグダグダになってしまう場合があります。ですから,アドリブには「才能」も関係していますが,「練習の賜物」とも言えます
練習すればするとほどアドリブを入れる余裕が生まれ,"練習量が見え見えの漫才"とは正反対の"活き活きとした漫才"ができるようになります
欠けているのは"本番を楽しむ"こと
賞レースでは特にそうですが,「楽しむ」のではなく「しっかりネタをこなそうとする」コンビが多いように感じます。ここで物を言うのが練習量です。練習量が多ければ多いほど,緊張や「ネタを飛ばしてはいけない」という不安に打ち勝てます。その結果,楽しんで漫才をすることが可能になります
"練習量が見え見えの漫才"に欠けているのは,本番を楽しむことです。たくさん練習すれば,本番も練習通りの漫才を披露できるかもしれませんが,"練習量が見え見えの漫才"になってしまうかもしれません。でも,それをさらに越えて死ぬほど練習すれば,本番を楽しむ余裕が生まれ,"練習量が見え見えの漫才"を越えた漫才ができるのだと思います
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❶「自分たちにしかできない漫才スタイル」を確立する方法 ❷しゃべくり漫才のうまさは「相槌」で決まる ❸「漫才台本の書き方」と「オチのつけ方」 ➍ボケやツッコミってどのようにして思いつくものなの? ❺「言い訳-関東芸人はなぜM-1で勝てないのか-」は"現代漫才論"ではない-ナイツ塙さんが何を「言い訳」しているのかが分かれば,関東芸人がしゃべくり漫才でM-1王者になる道が見えてくる- ❻漫才詩集「38」
フィクション漫才『煮豆🌱』-いとこい師匠のテンポで-
作: 藤澤俊輔 出演: おせつときょうた
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