『桜の温度』(平尾隆之監督)について

2011年に「アニメージュ」で『桜の温度』について書いた原稿です。『桜の温度』は、徳島の映画館ufotable Cinemaでのみ見られる20分の作品で、その後『魔女っ子姉妹のヨヨとネネ』、『映画大好きポンポさん』を手掛ける平尾隆之監督の手によるものです。

(本文)
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
「小景異情」室生犀星

 一番自分に馴染む場所。だから、一番嫌いな場所。故郷を思う気持ちはいつも二つに引き裂かれる。『桜の温度』はそんな故郷についての映画だ。
 早春。卒業式を前に桜が散り始めている。周囲を緑に囲まれた古い田舎町。『桜の温度』が描く故郷の風景は、存在感を持って目に迫ってくる。その風景は美しくも、少し重たい。少女マンガを意識したという線の細い登場人物たちは、この重たい風景の中で息を潜めるように生きている。
 風景の重さは、背景に輪郭線があることから生まれている。黒い輪郭線が与える、どっしりとゆるぎのない存在感。それにたいして登場人物は、その輪郭に線を持たない。それ故にふいに消えてしまいそうな、ある種のあやうさを身にまとっている。
 『桜の温度』は、香川県の小さな町を舞台に、高校一年生の主人公・柊吾の「故郷を捨てたい」という葛藤をめぐる物語だ。設定だけ見れば実写であってもおかしくない内容だ。だが『桜の温度』は間違いなくアニメーション作品として成立している。その説得力は、この輪郭線の操作そのものが、この映画の本質を語っているからだ。
 柊吾が一番最初に発するセリフは「この街には何がある?」。同級生のシンヤはこの質問に雑誌を読みながら「あ? 学校かな……」と気のない返事を返す。
 劇作家・演出の平田オリザが、高校生相手のワークショップで「知らない人と初対面で会話する」という課題を出したことがあるという。その時に平田が実感したのは学生というのは、家と学校、せいぜいバイト先を行ったり来たりしているだけで、社会人などと比べるとはるかに初対面の人と会話をするという経験がないという事実だった。高校生というのは案外、狭い世界に生きているのである。
 柊吾は本編の中であと3回、「この町には何がある?」という問いを繰り返す。
 そのうち1回の答えは平田オリザの体験をなぞるように「この街には俺たちの住む家があるじゃないか」というものだった。答えたのは、卒業を目前に控え、家業の手伝いを始めた柊吾の兄、海斗だ。
 高校生の世界は「家と学校」だけでできている。『桜の温度』はわずかなセリフで、そんな高校生の生きている世界の“狭さ”をわずかなやりとりの中で鋭く浮かび上がらせている。
 そしてその狭さを体感させるのが、輪郭線のある風景だ。存在感のある風景は、美しいけれど、同時に登場人物たちを押しつぶすように迫る。たとえば、海斗が継ぐことを決意した家業の砂糖造り。伝統的な精糖の道具にぶら下がる大きな石の重りの重さは、輪郭線を描くことで強調され、その重さこそ家業の重さなのである。
 柊吾は自分を取り巻く故郷というものが持つ重圧から逃れようと願い、海斗は長男らしくその重圧を引き受けようとする。
 そして2人の間にいるのがヒロインの蘭澄だ。蘭澄は海斗の恋人で同じく高校3年生。柊吾とも幼なじみという関係だ。
 『桜の温度』のファーストカットは蘭澄から始まる。廃墟となった工場から始まる。天井に大きく空いた穴から月の光と桜の花びら。光の底に横たわる蘭澄。この場面は、後に、物語中盤で起きる出来事をフラッシュフォワードとして冒頭に置いたことがわかる。
 蘭澄に柊吾は言う。 
「ここはイヤな感じがしないんだ。記憶とか思い出のない場所だから……。たまに来たくなるんだ」
 この廃工場は、その外観も、街のどの位置にあるかも演出的に明示されない。
 学校でも家でもない、もう一つの場所。自分と関係ある記憶のない名もない場所。だからこそ「自分自身」でいられると感じられる場所。だから、柊吾は故郷の重圧に耐えきれなくなった時、この場所に逃避するのだ。
 だがこの廃工場のシーンで忘れていけないのは、出口のように大きく開いているのは天井という点だ。空でも飛べない限り、その出口から外へ出ることはできない。
 ここは避難所であっても、長くいることはできない仮初めの場所なのだ。町はずれの遠くサーチライトをきらめかせるラブホテルが、「みんな通り過ぎていく」(蘭澄)場所であるのと同様に。
 蘭澄は柊吾の言葉に「同じだね」と答える。
 それは蘭澄と海斗は同じタイプの人間だと思っていた柊吾にとって、意外な一言だった。
 蘭澄のこの言葉をきっかけにするように映画の中のドラマはラストシーンへと向けて動き出す。柊吾、海斗、蘭澄がそれぞれどのような人生を選ぶかどうかは、いつかこの作品を見る機会に是非確認してほしい。
 『桜の温度』は約20分という非常に短い作品だ。しかしそこに流れる時間は濃密だ。シンプルで普遍的な物語が、映像によって雄弁に物語られている。そして、普遍的な感情を扱った青春映画として見事に成立している。
 実は『桜の温度』を見終わって、ふいに思いだしたのは、映画の方向性としては対極にありそうな『スター・ウォーズ』だった。
 『スター・ウォーズ』が1977年に公開された時、アメリカの多くの若者が熱狂した。彼らの心を捕らえたのは、当時最先端だったSFXを駆使した戦闘シーンもさることながら、砂漠の星タトゥーインで、地平に沈む二重太陽を見つめるルーク・スカイウォーカーの姿だった。叔父夫婦に宇宙に出ることを禁じられ、悔しさを滲ませるルークの姿は、そのままアメリカの地方都市に住む若者の姿だったからだという。地方を故郷として生きる10代の心情をすくい上げるという一点で『スター・ウォーズ』と『桜の温度』はクロスしているのだ。
 そしてその気持ちは、室生犀星が故郷のことを愛憎半ばにうたったはるか昔から変わらず、若者の中に渦巻いている感情でもある。
 『桜の温度』が描いた普遍性とは、このように国境や時代も超えたものなのだ。
 アニメージュの読者にはいわゆる「地方」を故郷として暮らしている人も少なくないだろう。また生まれ故郷を離れて別の土地で生活している人はもっと多いかもしれない。
 故郷を離れて生きるにせよ、地方に生きるにせよ、『桜の温度』には、あなたが生まれ育った故郷に持つ気持ちが描かれている。

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