『PSYCHO-PASS サイコパス』が描いたもの

2014年6月にS-Fマガジン用に書いた原稿です。時期でいうとTV第1期は終わっていて、第2期、劇場版は発表前というタイミングですね。Wikipediaに断片的に引用されているらしいので全文を。

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お題は「警察もの」「未来もの」
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 『PSYCHO-PASS サイコパス』は2012年10月よりフジテレビ「ノイタミナ」枠で放送された番組だ。犯罪を未然に防止する「シビュラシステム」によって治安が維持された未来の日本を舞台に、犯罪者・槙島聖護を追う厚生省公安局刑事課一係の管理官・常守朱と執行官・狡噛慎也の姿を全22話で描いた。
 同作は本年7月より「ノイタミナ」枠で新編集版(2話分を再編集して1時間枠とする)を改めて放送する。その後、引き続いて10月より「ノイタミナ枠」のオリジナル企画としては初となる第二期がスタート。そして本年冬にはさらに劇場版も控えている。。
 『PSYCHO-PASS サイコパス』のリスタートにあたり、ここではその成立とSFとしての特色を振り返りつつ、『PSYCHO-PASS サイコパス』という作品が描いたものを再考する。
 『PSYCHO-PASS サイコパス』の総監督は『踊る大捜査線』の本広克行である。本広と『東京マーブルチョコレート』(2007)で注目を浴びた新鋭の塩谷直義監督は、2009年ごろから制作会社ProductionI.Gでロボットアニメの企画を準備を進めていた。
 二人が念頭に置いていたのは押井守監督の『機動警察パトレイバー』(1988~)。人型ロボット・レイバーが普及した近未来を舞台に、レイバー犯罪に対応する特殊車両ニ課の活躍を描いた本作は本広の『踊る~』にも強い影響を与えた作品だ。だが、諸事情もあってこの企画はなかなかまとまらなかった。
 2011年4月になり、そこに脚本の虚淵玄が参加する。ゲーム『Phantom -PHANTOM OF INFERNO-』のシナリオなどの代表作を持つ虚淵は、2008年の『ブラスレイター』の脚本・シリーズ構成を手がけると、アニメにも仕事の領域を広げていた。ちなみに虚淵のアニメにおける代表作の一つである『魔法少女まどか☆マギカ』はちょうどその直前、2011年1月からの放送開始だった。ただし脚本は2009年末には完成していたという。
 後から参加した虚淵に、本広から示されたキーワードは「警察もの」と「未来もの」。この時点では既に『パトレイバー』が念頭に置かれてはいなかった。だがこのキーワードは『パトレイバー』でなくとも、ProductionI.Gの代表作である『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995)を想起させる。そこで『攻殻~』のような「特殊部隊もの」「国際事件もの」「サイバーパンクもの」ではないという縛りがさらに加わった状態で企画が練られることになった。
 このような消去法的な状況の中から「ウィリアム・ギブスン作品のようなサイバーパンクな未来像ではなく、P.K.ディック作品のような未来像」「国内を舞台にした泥臭い刑事もの」という方向性が決まり、具体的に企画がスタートすることになった。
 脚本には、虚淵が誘いによ作家の深見真が参加している。当時、明朗な海洋もの『翠星のガルガンティア』(2013)の作業も進めていた虚淵は「自分よりも血の臭いのするライターを連れてこなくてはいけない」(「ノイタミナクリエイターインタビュー」http://noitamina.tv/creators_interview/004-a.html)と考え、アニメ脚本初挑戦となる深見に声をかけたという。脚本に着手した時点で放送開始まで1年を切っているというギリギリの状況だった。
 キャラクター原案は『家庭教師ヒットマンREBORN!』のマンガ家・天野明。天野の原案を『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』の作画監督などで腕を振るってきた浅野恭司がアニメーション用にまとめた。浅野はこの後、本作のプロデューサー和田丈嗣が独立して設立したウィットスタジオで『進撃の巨人』(2013)のキャラクターデザイン・総作画監督を担当している。
 本広総監督は自らのポジションを、塩谷監督と虚淵を守りつつ企画をドライブさせていく立場(『PSYCHO-PASS OFFICIAL PROFILING』角川書店)と位置づけ、企画に携わった。間に映画『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』(2012)の撮影を挟みつつ、プリプロダクション(脚本開発)とポストプロダクション(主に音響作業)を中心に参加した。塩谷監督は、絵作りを中心に手がけ、「汚れた海に囲まれた水没都市」「青空の不在」などの映像的要素を魅力的に描き出し、独特の世界観を構築した。作中で、回転する換気扇ごしの光がしばしば描かれるのは、塩谷がディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を下敷きにした『ブレードランナー』(1982)の映像にオマージュを捧げているからです。このほか『ブレードランナー』に登場する拳銃の影響を受けて、本作の拳銃ドミネーターがデザインされている。
 フジテレビの「ノイタミナ枠」は当初は、「F1層を狙う」などと宣伝された放送枠だった。だが次第にさまざまな題材を取り扱うようになり、中でもオリジナル企画の場合は、社会のあり方を問いかけるような作品も増えてきた。本作は、そうした傾向の中で生まれた1本であり、TVシリーズのヒットが劇場版と2期に繋がることになった。
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SFとしての『サイコパス』
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 『PSYCHO-PASS サイコパス』の舞台は2112年。この時代の日本は、包括的生涯福祉支援システム=シビュラシステムを導入し、シビュラが人間の生活の多くをサポートしているという設定だ。SFとしての本作の中核にあるシビュラシステムとはどのようなものか。
 シビュラシステムは、人間の精神を常時監視し、数値化して判断すること(これをサイマティックスキャンと呼ぶ)で、その人の職業適性から結婚相手(同性婚が認められている)まで人生のあらゆる出来事を予測し、最適な選択肢を提案する。
 中でもシビュラシステムが力を発揮したのが犯罪予測だ。ストレスによって変化する心の「色相」と、当人の持つ犯罪傾向を現す数値「犯罪係数」を勘案して、犯罪を未然に防ぐために公安局を出動させる。犯罪を起こしていなくても犯罪係数が高ければ、「潜在犯」と呼ばれ、社会から隔離・治療の対象となる。ちなみに芸術は色相を濁らせる傾向にあるので公認性となっている。
 ここで描かれた未来像に一番近いのは、作品の方向性を形づくったP・K・ディックの短編『マイノリティ・リポート』(『トータル・リコール (ディック短篇傑作選)』早川書房所収)に近いだろうか。同作はスティーブン・スピルバーグが映画化したことでも知られている。
『マイノリティ・リポート』は、プリコグと呼ばれる3人の予知能力者たちで構成された殺人予知システムによって、殺人犯を未然に拘束するようになった社会が描かれている。
 またデータで人間の人生が決定される未来像としてはアンドリュー・ニコル監督の『ガタカ』(1997)が思い出される。こちらは修正前の遺伝子操作によって生まれた「適性者」と操作を受けていない「不適正者」によって分類される社会を舞台に、DNA情報が全てを決定するディストピアを描いていた。
 本作は、この2作と同じくディストピアSFの定番である管理社会を題材としているが、、シビュラシステムによる徹底した管理社会を、ディストピアでもユートピアでもなく、比較的ニュートラルな未来社会として描き出した。そこに本作の特徴がある。
 どうしてシビュラシステムのある社会をニュートラルに描いたか。
 第一に、その社会の是非が本作のテーマではない、ということがある。虚淵は「1クール目で『社会の問題や世界の描写』をしておいて、2クール目で一気に突き抜けて『すべてのしがらみに背を向けて戦い続ける2人の世界』を描こうと。そうすることで、ちょっと変わった作品になるんじゃないかと思ったんですよね。ディックで始まって、ディックで終わるような話にはしないようにしたかったんです」(『PSYCHO-PASS OFFICIAL PROFILING』角川書店)。
 確かに物語は2クール目に入ると、犯罪者・槙島のテロと、殺された友人のために槙島を追う狡噛という構図で物語は進む。隠されていたシビュラシステムの正体は明らかになるものの、その是非そのものはテーマとしては一方後ろに引いている。
 また、作中での世界観を感じさせるさまざまな点描も、シビュラシステムが単なるディストピアの守護神でないという方向で統一されている。シビュラシステムを支えるこうした裏設定は、脚本アップ後に考えられたものだが、シビュラシステムのリアリティを強化する役割を果たしている。
 たとえば本編では国境に武装ドローン(ロボット)が配備されている描写がある。作中で直接説明されていないが、100年後の未来は、新自由主義経済の崩壊により世界各地の国家が崩壊する中、日本は鎖国政策をとり、世界で唯一といい平和な国となっているとうい設定がある。他国からの違法入国などを水際で撃退するために武装ドローンが配備されているのである。
 日本が鎖国政策をとれたのは、メタンハイドレートの開発と遺伝子強化された小麦・ハイパーオーツの普及によるエネルギーと食料の自給が可能になったからだ。この鎖国もまたシビュラシステムの判断であったとされる。
 つまり、作中の人物は、シビュラシステムがあるからこそ世界で唯一といってよい繁栄(ただし人口は少子化の流れもあり2012年の10分の1程度まで減っている)を享受できてきるのだ、という自覚があるのだ。
 シビュラシステムに人生を委ねてしまう、ということに一抹の不安感を感じつつも、それがもたらす安全と便利さに抗えない人々。第17話ではこうしたシビュラシステムの有り様を念頭に置きつつ、狡噛がウルリッヒ・ベックの『危険社会』を引いて、「『便利だが危険なもの』に頼った社会のことさ」と発言している。
 『危険社会』はチェルノブイリ原発事故の起きた1986年に出版された。悪夢のようなディストピアではなく、「便利だが危険なもの」への依存から抜け出せない社会のほうがより現実的な問題提起を孕んでいるのはいうまでもない。
 本作の特徴は『危険社会』に限らず、ポイントポイントで哲学者や書物への言及を織り込んで、SF的アイデアの根幹をなすシビュラシステムを考える手がかりのようなものを視聴者に向けて残しているところにある。
 言及されたり、その一節が語られる書物は『1984』(ジョージ・オーウェル)、『人間不平等起源論』(ジャン=ジャック・ルソー)、『パンセ』(ブレーズ・パスカル)、『大衆の反逆』(オルテガ・イ・ガゼット)、『ガリバー旅行記』(ジョナサン・スウィフト)、『支配の諸類型』(マックス・ウェーバー)など。これらは深見が脚本段階で盛り込んだものだという。
 「泥臭い刑事もの」を志向している本作だけに、こうしたペダンティックなネタの折り込みが逆にスパイスとなって、作品の個性を引き立てることになった。
 ちなみに槙島は「本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚を調整するためのツールでもある」と語るほどの愛書家という設定。前掲の書物以外にもSF、ハードボイルド、ノンフィクションなど多彩な書籍への言及がある。そのあたりを探りつつ見るのも、再見する時の楽しみの一つといえる。
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『PSYCHO-PASS サイコパス』が描いたもの
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 では、本作は最終的に何を描いた作品だったのか。シビュラシステムを軸に考察してみよう。
 まず主要な3人の登場人物の立ち位置を確認しよう。
 常守朱と狡噛慎也が所属するのは厚生省公安局刑事課一係。常守は、そこに新任の監察官として、執行官・狡噛慎也と出会う。
 監察官は、シビュラシステムに選ばれたいわばキャリとして執行官を管理しつつ犯罪の除去に取り組む。これに対し、執行官は公安局における“猟犬”だ。犯罪者と同じレベルの犯罪係数を持ち、行動の自由も限定され、犯罪の取り締まりにあたる。狡噛はかつては監察官だったが、コンビを組んでいた佐々守光留が、槙島に惨殺され、犯罪係数が上昇したため“執行官墜ち”した。
 常守は、色相が極めて濁りにくいという、きわめてストレスに強い体質で、シビュラシステムが提供する各種のメンタルケアがいらないほどだ。
 一方、槙島は、犯罪行為に手を染めても、犯罪係数が上昇しない「免罪体質」だ。犯罪係数が上がらないから、サイマティックスキャンにも引っかからず、現行法では裁くことができない。
 槙島はシビュラシステム=社会から逸脱するような行為に人間の自由意思の本質を見ている。だからこそ犯罪者を扇動して事件を演出し、最終的には社会そのものをそのターゲットに大規模テロを計画する。
 常守、狡噛、槙島、シビュラシステムは複雑な対応関係にある。
 まず槙島とシビュラシステムを比べると、人間の自由意思に対する姿勢が正反対の対立関係にある。
 だが、槙島の言動を見ていると、彼の支援する犯罪者の自由意思を重んじているように見えて、実は自分の思うとおりに動かそうとしているのがわかる。つまり表面では対立的でありながら、自由意思に見せかけた管理」という点で、槙島とシビュラの振る舞いはかなり似ている。
 次に狡噛と槙島だが、狡噛は槙島を仇として追い、槙島は犯罪を計画するという点で対立関係にある。
 だが実は狡噛はシビュラシステムなど無視して槙島を殺すことを望んでおり、徹底した自由意思を持つという点で、狡噛は槙島の理想の人間像に近い。槙島が狡噛に執着する理由はそこにある。
 このようにシビュラシステム、槙島、狡噛は「表面的に正反対に見えるものほど接近している」という構図の下にドラマが組み立てられている。シビュラシステムの内側と外側がくっつくような、クラインの壺のようなねじれが本作のドラマの中核なのだ。
 そして、この3者が構築するトライアングルの中にあって、“外部”として存在するのが常守だ。槙島を追いながら、狡噛が槙島を殺すことを許さない。シビュラシステムに従って犯罪抑止をしながら、シビュラシステムにも監視の目を向けるようになる。もちろん槙島の自由意思礼賛にも賛同しない。
 人間であれ、システムであれ、それが正常に保たれ続けるには、異常な行動を起こしたときにそれを感知し、止める“外部”が“内部”に必要だ。完全に外に出てしまうのではなく、内部にあって飲み込まれない存在、それが常守なのである。
 かくして、シビュラシステムをめぐる物語は常守の「人間を甘くみないことね。私たちはいつだってよりよい社会を目指してる。いつか誰かがこの部屋(引用者注・シビュラシステムの中枢がある部屋)の電源を落としにやってくるわ。きっと新しい道を見つけてみせる。シビュラシステム。あなたたちに未来なんてないのよ」というセリフで締めくくられることとなる。
 さて来たるべき第二期と劇場版では、これら第一期を踏まえて何が描かれるのか。
 当然ながら一つはシビュラシステムそのものがテーマになるということが考えられる。どんなシステムでも制度疲労を起こすし、不測の事態がシステムを狂わせることもある。その時、“外部”の常守はどう振る舞うか。
 もう一つは、シビュラシステムの外に出てしまった狡噛のその後だ。免罪体質でこそないが、今の狡噛は限りなく槙島に近い立ち位置に立っている。そこに立った時、シビュラシステムはどう見えるのか。
 もちろん以上は単なる妄想にしか過ぎないが、本作のラストシーンには、それだけのポテンシャルを秘めている。そうした要素が果たして続編にどのように引き継がれるのか、興味深い。

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