2008年に書いた『らき☆すた』の原稿

ニュータイプWEB(今のWEBNewtypeになる前)に連載していた「アニメを見ると××になるって本当ですか」の10回目『らき☆すた』回。当時、角川の配信サイトで配信してた作品についての紹介コラムです。論評というほどでもなく、でも作品の「ここ」というポイントを捉えた上で、まっすぐ書かないということを意識してます。今読むと、2000年代はまだ平和でしたね。

 スイスの長年の平和は鳩時計を生んだそうだが、日本の長く豊かな戦後はなにを生んだか。『らき☆すた』だ。
 『らき☆すた』のヒロイン・こなたと父親はまるでオタク友達のような距離感で会話をする。こんな親子がホントにいるかどうかは知らない。が、いるんじゃないかという気もする。。
 なにしろ、もう何年も戦争も革命もないのだ。だから日本では文化は断絶することなくダラダラと続いてきた(そして続いていく)。その中でただ消費文化だけが洗練されていく。結果、消費文化の最たるオタク文化(笑)を親子で仲良く消費する時代がやってきたのである。きっと江戸時代もこんな感じで続いていたに違いない。
 『らき☆すた』はそんな洗練の中で生まれた。たわいないガールズ・トークを「作品」にしてしまうその腕力と、腕力を腕力に見せない「自然体(のふり)」。視聴者をくすぐる細部を用意し「もちろんわざと狙ってとやってますから」と微笑んでみせる余裕。その、その振る舞いそのものが洗練の産物なのだ。
 あるいは、こんな言い方もできるかもしれない。
 『らき☆すた』はアニメにおける新古今和歌集なのだ。
 新古今和歌集の特徴は「現実と遊離した象徴的な内容」「先行作品の多さを背景にした本歌取りの多さ」「華やかな技法の多様」などといわれている。
 これはそれぞれ『らき☆すた』における「萌えアニメの文脈」「他作品のパロディや言及について」「OPやEDなどの見せ場の作り方」と言い替えることができる。
 新古今和歌集が平安貴族の培った美学の結晶であるように、『らき☆すた』もオタク的な美学――妄想といってもいいかもしれない――の結晶であるのだろう。
 この「洗練」の妙味を完全に味わうことができるのは同時代人だけだ。鳩時計は永遠だが、『らき☆すた』は生ものなのである。なるべく早く味わうこと。

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