ドラマの伴走者――菅野よう子の劇伴

 いうまでもなく、菅野よう子の楽曲の多くは、映像作品(主にアニメ)のために描かれた劇伴だ。だが菅野の劇伴が「伴」の範疇に収まらないのもまた事実。作品に忠実に寄り添うだけでなく、時に作品の芯をねらい打ち、時に思わぬ変化球で作品の幅を広げる。菅野よう子の劇伴は、菅野なりの作品に対する一種の批評といえる。
 ここではいくつかの作品を取り上げながら、菅野の楽曲と作品の関係を確認しようと思う。
 ではまず、アニメにおける音楽発注の大まかな流れを簡単に説明しておこう。
 TVシリーズのアニメの場合、原則として、映像とは別に音楽制作が進められる。音響監督と監督が打合せをしてまず音楽メニューを作る。メニューの書き方はいろいろだが「主人公のテーマ1 勇ましく」とか「戦い3 劣勢から逆転へ」といった具合に、メニューにはその曲が本編で果たすであろう役割と求められる曲調などが書かれる。作曲家は、このメニューにしたがって各曲を作曲する。完成した楽曲は、時に編集をほどこされつつ、完成した映像へとはめ込まれていく。
 一方、映画などの長編アニメの場合は、通常の映画音楽とほぼ同じプロセスで作曲される。まず絵コンテをベースに、どのシーンにどんな音楽を流したいかが決められる。この「どのシーンにどんな音楽を流したいか」というリストが長編アニメの音楽メニューになる。作曲家は、ラッシュなど実際の映像の尺に合わせて、メニューに沿った内容の作曲をしていく。
 菅野の場合、こうした基本的な流れを踏まえつつも、しばしば大胆にそれを踏み越えて音楽制作を行っている点が、非常に大きな特徴といえる。

 最初に取り上げるのは『COWBOYBEBOP』だ。ここでは特にSESSION#5「堕天使たちのバラッド」における音楽の使い方に注目したい。
 サブタイトルに音楽用語が散りばめられているほか、OPで軽快に流れる『tank!』などの印象もあって、音楽とは不可分な印象の『COWBOYBEBOP』だが、当然ながら劇中で常に音楽が鳴っているわけではない。むしろ、音楽をどこで聴かせるべきかを意識し、そうでない場所では徹底的に音楽を排除しているのが『COWBOYBEBOP』といえる。
 たとえばSESSION#5のAパートでは、ほとんど劇伴が使われていない。ヒロイン・フェイが劇場へ乗り込むときに、短くコミカルなタッチの音楽が鳴り、、あとは舞台で男性歌手が歌い上げている「AVE MARIA」だけ。Bパートになっても、この音楽的寡黙は続き、主人公スパイクの古なじみアニーが思い出話を始める場面で、わずかに「WALTZ for ZIZI」がかかるが、これも数秒で消えてしまう。
 ところが、スパイクが仇のヴィシャスと決闘をするために、教会へ向かうカットから状況は一変する。ここから「Rain」がかかり始める「Rain」はスパイクとヴィシャスが対面し、言葉を交わす間も流れ続け、スパイクが戦いの火ぶたを落とすように拳銃の引き金を引くまで終わらない。
 「Rain」が流れていたのは2分16秒。TVアニメの総尺数が21分であることを考えると、2分超というのが、相当に長い時間であることがわかるはずだ。
 スパイクとヴィシャス、ヴィシャスの手下との戦いは、劇伴がつかない。そしてヴィシャスとの一騎打ちの後、ステンドグラスを突き破り、スパイクが地上へと落ちていくカットでふたたび音楽が流れ始める。
 今度は子供の清らかな声が響く「Green Bird」だ。映像は、初めてかいま見せるスパイクの過去とスローモーションで落下していく様子をカットバックして映し出す。音楽が流れるのは1分47秒で、やはりかなりボリュームのある音楽シーンになっている。
 この後、スパイクが目覚めるときに聞く「鼻歌」という音楽要素も興味深いが、やはりSESSION5については、「Rain」と「Green Bird」を頂点とするように、音楽の使い方が設計されているのは間違いがない。
 これはおそらく前作『マクロスプラス』から引き続いて菅野を起用した、渡辺信一郎監督からの、菅野への一種のアンサーだったのではないだろうか。
 そもそも菅野は、ビバップに関わるにあたって、その直前にやっていた『天空のエスカフローネ』のクラシカルで正統派のオーケストラ曲とは正反対の音楽をやりたいと思っていたという。それは「悪くて残らない」音楽、「三年後に聴いたら『ダッサー』と思っちゃう」音楽。別の言葉を選ぶならジャンクな音楽、とっいってもいいだろう。
 一方、音楽打合せで「ジャズ」というキーワードをもらった菅野は、『COWBOYBEBOP』の企画を聴いた時点で「地味で売れなさそうだから、音楽でフックをつける必要がある」という印象を持ったという。
 この「音楽でフックを」という気持ちとジャンクな音楽志向が組み合わさった状態で、菅野はまずかなりの曲を書いている。映像がまだ具体的になる前の段階にもかかわらず、二十曲から三十曲入ったCDが6枚分ぐらいあったという。音楽メニューなど無視して書いていることが容易に想像がつく曲数だ。
 この映像が固まる前にかなり曲を書いてしまうのは、菅野にはよくあることという。みんなで作品をまとめようと意識してしまうことで、作品が小さくまとまるのがイヤなのも、映像を待たずに曲を書いてしまう一つの理由だという。
 SESSION#5で使われた曲はは、こうして事前に書かれた曲から選曲されている。状況そのままというわけではなく、むしろ対照的な楽曲を選ぶことで、作品に奥行きを与えている。
 この選曲の仕方が、菅野を刺激したのではないだろうか。菅野はSESSION#5の感想を次のように話している。
「作品もたぶん5話目ぐらいまではフワフワしてて、みんなで『ルパン三世』みたいなことをしてて、それが5話ぐらいで変わりましたよね。で、その変からもうちょっと曲を書きたいと思っていて」
「ナベシンが、正直あんなふうに、あそこまで人間を深く描くひとだとは全然思ってなかったんで、5話ぐらいもまだ深くないですけど、ちょっと違う感じになってきて。」
 この後の答えで「だからといって作ろうと思っている曲が変わるわけではない」と明言はしているものの、「フックにならなくては」とは異なるスタンスが菅野の中に生まれたのは間違いない。
 菅野との対談の中で、『COWBOYBEBOP』にも参加している脚本家の佐藤大は、渡辺監督が菅野の曲を使うとき、DJのようなリミックス感覚で使っていたのではないか、と指摘している。映像と音楽が、渡辺監督と菅野の間でキャッチボールのようにやりとりされることで『COWBOYBEBOP』という作品が形作られていったのだが、SESSION#5は、その第一歩ともいえるエピソードだったのだ。

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