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100分の1になるには基準を持つのが大事

さとなおウォッチャーのfujita244です(笑)

 恐れ多くも、さとなおさんと自分を比べて、人生のあり方を考えるシリーズ(だったのか、これ?)ですが、なんと、ご本人にスキをいただいております。ありがとうございます。

 このご本人にスキをいただく感じは、昔のブログでトラックバックを貼って、コメント欄にご本人登場な感じを思い出しますね。

(といっても知らない人が多いかもしれませんね。トラックバックってどうしてなくなったんだろうなあ)

 さて、100分の1に成り損なったわたしには何が足りなかったのかについて、さとなおさんが次の100分の1を獲得する過程から見えてきます。

 この記事でさとなおさんが明らかにされているように、100分の1になるには、そのジャンルの本流を体系だって学ぶことが必要です。本流であることは、本当に100分の1かを判断するときにちゃんとしたコミュニティの中で評価されるために重要ですし、体系だって学ぶことは基準を持って自分の実力を評価するために必要です。

体系だった学習の必要性

 さとなおさんは、ご自分でも講演をされたり、自分の塾で教えているので、コミュニティに属す重要性と、体系だった考え方の必要性をよくご存知です。それを実践されているといって良いでしょう。

 これは、本流を歩んで来た方にとっては当たり前のことかもしれません。

 大企業と言われる会社では、どんな分野の会社でも会社員として必要なこと、本業にとって重要なことなどを最初に体系だてて教わります。それが社員教育というものです。

 今の時代、何があるかわからないから大企業に入るのが良いわけではない、と言われがちですが、私は、これが、大企業に入る最大のメリットと考えています。私の友人でも最初に大企業に入って、そのあと中小企業でトップになった人と、中小企業の中で成功した人では、ある時から会社の規模を大きくしたりするときに違いがあるように思います。

 話は違うように思うかもしれませんが、最初からスタートアップに入った人と、大企業をスピンアウトした人の成長速度の違いは、この基礎があるかないかにあると私は睨んでいます。基礎がないと、良いときはイケイケドンドンでなんとかなりますが、行き詰まった時に立ち返る場所がないので落ち込みが激しい。そこを乗り越えるには広範囲の勉強が必要です。しかも感覚でなく、体系だった理論に裏付けられた知識の総合、つまり基礎と俯瞰が不可欠なのだと思います。

 この体系だった教育というのが、私にはなかったのです。

鶏口となるも牛後となる勿れは本当か?

 突然のことわざですが、これは私の座右の銘的なもので、いつも大企業に属さず、小さな組織で先頭に立って走ってきたことが、私の全てだといって良いでしょう。

 考えてみれば、大学での専門(心理学)も独学でした。ゼミに属して先輩や教授から論文の読み方や研究の進め方を習ったわけではありませんでした。卒論を書くにあたってゼミに属する必要はなく、卒論は指導教官がいれば良いと指導要領にあることを見つけ、3年生の時に他の人がどこのゼミに属するかを考えている時に、演劇サークルの座長としての活動に専念していました。そして4年になったらば、東京で演劇スクールに入って渋谷でバイトしつつ、卒論と体育のために週に一度茨城県にある大学に通う生活でした。体系だった教育を受ける機会を手放して、先行研究を見つけて、同じ調査をして分析結果を比較し、その理由を書くという卒論を独学で書きました。指導教官をお願いした恩師には、定期的に進捗を報告するだけで特に何を教わるということもなく、とにかく書き上げて提出しました。

 結局、俳優になる道は大学の演劇部の先輩が所属していた演劇グループの講座を受けていたのですが、これも理論がなくて実践の繰り返しで、体系だったシステムを学んだという感じではありませんでした。スタニスラフスキーシステムをNYで学んだ唯一の日本人という話だったんですが、講義はなかったですね。

 就職先も大企業の試験は役員面接で落ちて、結局、就職課の紹介で20人ほどの会社に入りました。そこでも学ぶより真似ろ、見て覚えろという体育会系の会社で、1年で成果を出して2年目にはトップクラスの成績でした。お客様は大企業の部長クラスになる組合幹部で、20歳くらい上の方たちに独学のマーケティングや広告のイロハをプレゼンしたり、デザインの基本も知らずにデザイナーと打ち合わせしたりしていました。

 広告の体系だった仕組みは、一応宣伝会議の通信講座を大学生の時に受けてみたこともあって、なんとなくわかってはいましたが、実態は、当時の糸井重里さんや仲畑さんなどの売れっ子コピーライターの話を広告批評で読んで貼り合わせたハリボテの知識でした。

 それでも、鶏口となるも牛後となる勿れを呟きながら、小さい組織で大きな会社の偉い人たちを動かしていくのを快感として仕事をしていました。

 でも、本物ではない。そんな気持ちが自分の心の奥底にありました。

下駄を履いた人生から草履の人生へ

 下駄を履かせるという言葉がありますが、実力以上の成果を上げていた私が鶏口となるも牛後となる勿れと言いながら仕事ができた背景は、私が優秀だったということではなく、常に上司が背後にいて、私の無鉄砲な行動を見守ってくれたからだったと思い知ることになります。

 小さい組織ながら上司に恵まれていたことで、結果も評価も下駄を履いていたのです。最初の会社では、実は上司が成果を出していたお客様の後をつぐ若手がおらず落ち込んでいたのが、そこに私が入ってハマった結果、売り上げを伸ばしたという流れでした。次の会社でも、上司が持ち込んで通した企画を長く継続したことが評価されたというのが大きく、私が一から成し遂げたとは言えないものでした。

 この一から成し遂げることの重要性と難しさについては別途書いてみたいと思いますが、〇から1と1を100にする違い、というのはまた議論があるところです。

 転職して研究プロジェクトのマネジメントというのは、研究経験がない中で進めるのはなかなか難しく、でも、研究プロジェクトのリーダーと意思疎通を図り、彼の意思を全体に伝える作業というのは、ある意味、虎の威を借る狐なわけで、私の実力を誇るよりも、上手く下駄を履く必要があります。A先生が言っていたから、これを実行する、というようなことです。

 それで上手く回っているときはいいんですが、こちらの実力ではないので、そこを見透かして嫌味を言ってくる人もいるわけですね。そういうのは相手にしなければいいんですが、研究経験のなさ、結局、体系だった教育を受けていない弱みが、最後に、私の心身を弱らせたとも言えます。

 全てを失って、これまでの経験を何とか活かしつつ、素で生きる生活になっているというわけです。

 こうやって自分の人生を振り返って、わかったようなことを書いているのはなぜかというと、自分なりのしくじり先生なのかもしれません。

 こうならないために何をすれば良いか。それが伝わるといいなと思います。

 これからは好きな着物を着て、草履で生きてみようかと思います。



サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。