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日本文化が「現代から遠い」のは、近代に留まっているからではないか

日本文化と呼ばれるものが、現代日本に生きていると「遠い」にはなぜだろうか、と考えるシリーズです。

前回は、文化人類学の論文に触発されて書いてます。

この近代化と文化の問題は、多くの日本人は、変容したことは認めても、文化が無くならなかったことには、あまり疑問を持たないかもしれません。

でも、多くの国では、近代化とともに、その国の文化そのものが失われている例もあるわけです。

海外から見れば、こういう言い方にもなるような問題です。

民主主義国家とは、国民国家の形成ということでしょうし、それは近代化ということになるのは、前回も紹介した論文で述べているところです。

ただ、日本が民主主義国家になっても守っている独自文化の、その守られ方、守られた結果としての存在が、「遠い」と感じる現代日本人が多いのはなぜなのか。それは、守った人が「遠い人」だったからではなかったのか、という仮説が出てきます。

その結果、文化の受容に必要な、文化の継承者、特に、見る担い手を民主主義教育の中で育ててこなかったからではないか、と感じています。

文化の継承者を育てる教育として、やる人を育てる事例は、細々ですが地域にも中央にもあります。商業的にもあるでしょう。しかし、江戸期に日本文化が拡散し、隆盛を誇ったのは、玄人はだしの素人と見巧者がたくさんいたからではなかったのでしょうか。そういう文化を支える社会環境がどうして失われたのか、ということを考えずに、文化の再興を目指しても、なかなか難しいのではないか、と感じます。理由を改善せずに、原因だけを求めても、対処方法が正しいとは言えないのは、医療だろうと社会改革だろうと同じことでしょう。

失われた原因は、端的に言えば、日本文化と接する機会の喪失なのですが、その理由は、日本文化が変容したから機会が喪失されたのではなく、日本社会が変容したのに、日本文化はその存立基盤を変容した社会に添わせずに、そのままであろうとした自分たちを可愛がる愛好家にのみ身を任せることにしたからではなかったのだろうかと、考えています。

日本文化が、近代化されることを拒否したのではなかったのか。

そこにあるのは、黙阿弥の苦悩と、それを受容しなかった荷風の問題です。

この時に引用させていただいた、この記事で紹介している、「黙阿弥の明治維新」の記述に立ち返ることになります。

黙阿弥が演劇改良運動にのって、歌舞伎を変えていこうとしたのに対して、荷風が評価したのは、黙阿弥がカリカチュアライズした江戸だったわけです。江戸文化を近代化に即して見直すのではなく、空中に固定した江戸を描き出し、それを愛でることを選んだ荷風。

しかし、これは荷風一人の問題ではなく、明治期に江戸文化は、西洋文化に対抗するものとして、海外からの再評価を受けた「輸出用の陶器」のように派手で煌びやかなものだけが残り、それに抗する人たちは、新派などに移っていくのでしょう。

浮世絵も、明治期に入って技術は優れていき、暁斎などのブームを産むわけですが、一方で錦絵は、ジャーナリズムに取り込まれ、メディアの一部となり、写真に取って代わられて廃れていくわけです。

では、日本文化は、明治期に衰退したから、現代日本人にとって遠くなったのでしょうか。それだけではないと思います。

前回書いたように、欧化と回帰(国粋)のサイクルが文化受容に関係するとすれば、その中で、日本文化は、どのようにして、現代から乖離していくのでしょうか。

そこには、戦後民主主義の登場と国粋主義の拒否という、もう一つの壁がそびえているように思うのです。

日本文化が、日本を代表するものだとすれば、それは、戦後日本にとって必要なものなのか、という議論が立ちはだかったと言います。

そこを考えるには、多分、この本を読まないといけない気がする。

その本を読まずに書くために、この記事に出会いました。

政治、経済、社会、文化……。そのなかでも文化の一分野である演劇、しかもそのなかの古典劇である歌舞伎を私が取り上げたのは、一つは私が歌舞伎をずっと見続けて来たからであり、この戦後70年の間私の人生体験のもっとも基本的な部分だったからである。
しかしそれだけではない。そもそも歌舞伎が前近代に生まれて近代、現代という歴史的な時間の中で生き続けているものだからである。

まさに、近代から現代への移行の中で、歌舞伎がどうなったのか、それは実は、日本人自身の近代から現代への変化に裏打ちされていると、渡辺は述べています。

近代が破産したのは、あながち歌舞伎だけの問題ではない。近代的な人間像や世界観が崩壊したからである。

この本は、歌舞伎のことを書いた本ではあるが、歌舞伎の本ではないそうです。

それは必ずしも歌舞伎という文化の一分野の問題ではない。社会の、日本文化の大きな問題のはずである。

歌舞伎を考えることは、日本の文化変容や、近代から現代への社会変容という大きな事柄を考えることになりそうだ、という私の感は当たっているようです。

日本文化がなぜ現代から遠いのか。それは、日本人とは何か、という問いとともに、現代とは何か、という問いとセットであり、結局、現代日本は、なんなのか、という問いに突入していくのだと思います。

面倒臭いことが続きます。


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