文科省サマに逆らえない>< ある国立大学の実情

 ※この記事はあくまで一国立大学の一学生から見た感想にすぎません。私が見聞きし、実感として感じたものは全体のごく一部分にすぎないことをご了承ください。


~あらすじ~

 来年度から始まる授業料免除新制度は、「同世代で働いている人が大多数だから」という理由で大学院が対象外! 文科省サマへの「研究を何だと思っているんだ」という批判が燃え広がる昨今。絶対教育滅ぼすマンと名高い文科省サマの鶴の一声に逆らえず、大学生もまた、末端の末端で口に辛酸を注ぎ込まれているのであった!


◎学費が安いからお金もない?

 遡ること二年前。当時十八歳だった私は、家の経済的な理由もあり、ある国立大学を受験しました。私の実力からは少し背伸びが必要だったものの、結果としては合格最低点+1点での奇跡的な合格でした。私は大いに喜び、胸に希望と期待とを抱いて大学生活をスタートさせました。自分の興味のある分野に関して深い知識を学べることが、とても、とても楽しみでした。
 しかしながら、日が経つにつれて、大学に対するきらきらとした眼差しはどんどん死んでいくことになりました。

 片田舎の自称進学校であった母校は、例に漏れず国公立至上主義でした。世間的にもどちらかというと国公立賛美の傾向があり、私大に不名誉なレッテルが貼られることもしばしば。
 確かに、国公立にはメリットもあります。代表的なのは、やはり私立大に比べて学費が安いことでしょうか。授業料の減免などの制度も魅力的です。私自身も大変お世話になっており、家出した身で無事に二年生を迎えられたのもひとえに授業料免除のおかげです。
 しかしながら、実態として、国立大は一概にいいことばかりとも言えません。それとこれとはまた別の話です。

 幽霊でも出そうな古い建物……ギリギリまで削減される冷暖房費……
 学費の安さは魅力的ではあるものの、それに裏打ちされる形で、弊大学では建物の老朽化などが問題になっています。ある年は渡り廊下の屋根が崩落し大騒ぎになりました。施設環境に関して、諸所で改善を訴えても、予算を理由に突き返されることも少なくありません。
 学費が安いからこそ、大学全体がどことなく貧乏くさいと言わざるを得ません。その、ほぼ唯一無二のメリットである学費の安さについても、値上げが検討されているそうです。
 なのに噴水は湧きます。私たちの学費が噴水になってる……というある種の感慨から、池の真ん中でしゅわしゅわ湧き出る噴水を我々学生は「学費」と呼んでいます。

 さらに弊大学では、屋根ばかりでなく学問までも崩落に向かおうとしているように思えるのです。


 以下は私の所属学部に関する話を中心に展開していこうと思います。


◎選択肢が狭まる文系~教員数、分野、授業の減少~

 私の所属する学部はいわゆる「人文系」です。専攻ごとに、哲学や歴史学、考古学、民俗学、言語学などを学ぶことができます。学生それぞれが学問的関心を持っていて、入学時点から自分のやりたい分野が明確な人もいます。私も倫理学を学びたいという希望がありました。

 しかし、入学前の資料ではできることになっていた分野が、入学後にできないとわかる、という事案が、弊学部では大変多くあります。
 ホームページに載っていた先生はとっくに退職していた……ある分野の先生が定年退職でいなくなる……教員の不足によりコースそのものが統廃合される……
 そんなことは珍しくもなんともありません。
 先生が減る。先生が減ればできる分野も減る。授業数も減る。当然のように補充はされません。学生が学ぶことのできる分野は、どんどん少なくなっています。

 私が主として学びたかった倫理学も、現在は3人いる専門の先生が、定年で1人減り、2人減り……私がゼミに入る頃には1人になっています。できる分野が狭まることもさることながら、先生側の視点から見ても、ワンオペの大変さは想像を絶します。
 結果として、コースも哲学と統合され「哲学・倫理学コース」となりました。入学段階では「倫理学コース」に進めるよ! と説明されていたんだけどなあ。

 さらに馬鹿げている統廃合として、史学の「東洋史コース」と「西洋史コース」が合併されて「ユーラシア史コース」に改変されました。範囲広すぎだろ。なんでもありです。

 日本史に関しても、先生の関係で、できる分野は近現代(明治以降)か中世(奈良・平安)のみ。近世にあたる江戸時代などについて扱うことは難しい。
 知り合いの話によれば、この件について「高潔な人格」と称されるN学長に打診したところ、「日本史の他の分野の先生に教えてもらえばいい」と一蹴されたそう。高潔という言葉の定義を疑いました。

 学生主催の弊大学新聞によれば、人文系の教員数はここ4年で12人減り、向こう3年でさらに9人減るそうです。17あったコースも11まで統廃合されています。
 開講の授業数も14年度の507から19年度には417まで減っています。それまでは非常勤の先生で対応していたものの、その部分の予算が4分の1に減り、科目の維持が厳しくなっているようです。
 教員数の減少に関しては社会系の学部も深刻なようで、私が今述べたことはあくまで氷山の一角にすぎません。
 予算は削られ、教員も減っていく中、教育の質を維持するための苦肉の策が「授業数の削減」「コースの統廃合」のようですが、教員一人あたりの負担は増えていく一方だと言います。


 以上のように、個々の事例を見て行けばキリがありません。教員の後任がいない現状はひとえに予算削減の都合でしょうが、高潔な人格のN学長は100億超の予算をかけてアリーナを建てるくらいなら正直教員に回してほしい。
 ある先生のお話によれば、研究費は年5~6万円程度(事務用品や切手代、交通費も含む)だそうです。「君たちの学費は一体どこに行っているんだろうねえ」とにこやかに告げる先生の笑顔に、深い闇を見た気がしました。
 ※一説によれば文系・理系問わず研究費は低迷しているそう。これで「実績を出せ」「大学ランキングを上げろ」は無茶も甚だしいと思いますよ。

◎カリキュラム改変の理不尽

 そんな、ただでさえ不満の大きい現状に際して、さらなる爆弾が投下されることになりました。それが本稿で述べる「カリキュラム改変」です。

 弊大学は現在2学期制を採用しています。授業期間や形式などは学部ごとに異なりますが、うちの学部では、ひとつの科目に1学期と2学期でそれぞれ1.5単位を付与し、通年で3単位という授業展開をしていました。
 しかしながら、この「1.5」が文科省サマの目に留まったようです。「この小数点はなんだ、けしからん。単位数は整数にしろ」というような要望が下りたようで、今年度から、急激にして大幅に授業形態の変更が行われました。

 全15回あった授業は10回に短縮され、1科目につき1単位といった扱いになりました。卒業のために必要な単位の数は変わらないため、学生は1.5倍多くの授業を取らざるを得なくなりました。前述のように、そもそもの教員と授業数が減っている現状にもかかわらず、です。おかげさまで私も、学期末には11本のレポートを書かなければなりませんでした。去年に比べてずっと負担が増えたように感じます。
 4月から8月にかけてまったりと行われていた授業が、4月から6月末にまで短縮されます。多くの授業を取ることを強いられた学生が、この期間に集中します。1授業ごとの定員が多くなり、教室に人があふれ、先生の負担も増加。その上、昨年度よりも道や学食などの混雑がひどくなりました。
 さらに、15回かけて行っていた内容を10回で行わなければならなくなった都合上、内容も省いたり、説明を省略したりせざるを得なくなります。授業の質の低下を感じている学生は少なくありませんでした。

 教職課程をとっている人は、さらに負担が増加しました。ただでさえ「教職をとっていない人の倍忙しい」と言われていた教職課程は、自分の専攻以外にも指導科目に関する授業を多く取らなければなりません。短期間に多くの授業を取らなければならなくなった以上、文字通り地獄を見ることになりました。
 また、自分の専門科目と教職に必要な科目の授業がブッキングしていたり、教育実習に行った場合4回程度の授業でレポートや試験を行わなければならなかったりと、多くの弊害があります。大変すぎて心を折られる人も少なくありません。
 東京教育大学が前身であることを声高に掲げ、教育学部以外も教員免許が取れることを触れ込んでいた弊大学ですが、教員免許が他の大学より取りやすいなんて真っ赤な嘘です。国全体で教員数が減っているのもさもありなん、です。
 前述の「できると思っていた分野が入学してみたらできなかった」との合わせ技で、大学側のきらきらした説明はほぼ詐欺にしか見えません。

 納得がいかないのは、自身の専門分野は「1単位化・短期化」されたにもかかわらず、必修科目にはそれが適応されていないことです。英語は8月まで授業がありますし、体育は各学期0.5単位、通年で1単位。
 また、他学部ではここまで急激な改革は行われていないとも聞きます。
 大学の権威に学部が負けた構図がありありと浮かびました。

(追記7/30)
 他学部との差について
 弊学部教員の説明では、カリキュラム改変はさも「全体的な方向性であり、やむを得ない」と語られていたのに、実際には改変がなされなかったところもあるよう。一部の理系などは従来通りの1.5単位ベースのままです。
 ここまで大幅な改変をなぜうちの学部は強いられたのですか? なぜ私達だけ? と言うと被害者意識丸出しですが、そういった嘆きがこの文の意図でした。
 ただでさえ肩身の狭い文系の隅っこの学部だから、抵抗しようにもできず、権力に屈したのかなあ。それとも、今は改変されていない部分は、追々また改変されていくのかなあ。さらなる被害者が出ないことを望むばかりです……。


◎会議にて

 学生側の不満や要望を先生方に訴える機会として、うちの大学には学生の代表者が主催する連絡会議があります。その会議に向けて行ったアンケートにも、上記のような不満は多数見られました。
 学生側は学生の不満を総括し、提言という形で先生方に報告しました。学生の負担の増加などが主な論点でした。先生方からは「これでも最善の方法をとったつもりだ」「学生側の負担を極力減らそうとした教員側の意図もわかってほしい」と言い訳がましい返答があるばかりでした。
 「授業の回数が減り、内容が十分に深められなくなった」という点に関しては、「教員が減っている以上やむをえない。知識面ではたくさんの科目を取ることで補填できるはず」との回答。「卒業の埋め合わせのために、本来は必要なかった専門外の科目を取らざるを得ない」ことに関しては、「広い知識を身に着けることも大切」との回答。どれもどこか的外れなものに思えてなりませんでした。
 会議全体にもやもやした雰囲気が漂っていました。

 議題は移り「一年生のある共通科目に関して、担当する教員ごとに内容と負担が異なることが不公平感に繋がっている」というものが取り上げられました。
 これに際し、ある先生が「色々な意見の人もいるだろうし、自分は昇進とかどうでもいいからあえて率直に言わせてもらうけど」と前置きをし、「不公平感を受け入れることも大切」と自身の論を述べました。同じ題材でも人によって切り取り方が異なるのが文化系の醍醐味だ。それを「不公平」と言って潰そうとするのは勿体ない。そんな口上。

 その言葉に我慢ならず、「すみません、少しいいですか」と手を挙げた学生がいました。私の隣に座っていたSくんでした。
 Sくんは、東洋史を愛してやまない学生のひとりです。自分の求める専門書には万単位の金を惜しまず、結果としてライフラインの一部が止められるような、学問を愛するあまり色々なものを犠牲にしているような人でした。有志による勉強会や発表会を開くなど、自主的な取り組みも多数していました。

 Sくんは静かに喋り始めます。
「この学部を選んで入ってきた学生の中には、自分の極めたい専門があって、その学びを深めたいと思って大学に入学した人も多々いると思います。
 しかし、今回のカリキュラム改変で、専門外の負担が増え、専門的な勉強はしづらくなりました。僕たち学生には、授業で専門的な勉強をする時間を奪われたような実感があります。
 それにもかかわらず、不公平を肯定しろ、受け入れろという言い方は、僕は納得ができません。
 荒い言い方になってすみません。以上です」
 口調は穏やかでしたが、怒っている、とすぐにわかりました。

「これ俺答えなきゃいけないのかな?」
 先ほどの先生が笑いながら口を開きました。
 その後の返答はこのようなものでした。
  
「そもそも、授業にすべてを期待しているのが間違い。授業以外にも大事なことがあるし、専門分野を深めるための勉強は、授業外で自らすることもできる。7,8月がヒマになったと嘆くのなら、その時間に自分で勉強すればいい。能動的ではなく主体的に学ぶことが大切。私が学生だった頃は学校に期待せず自分で勉強していた」

 誰よりも自分で勉強しているSくんにそれを言うのか。先生は知らないから仕方ないのだけれど、私は呆気にとられました。
 そもそも、私たちの不満は「7、8月がヒマすぎる」ことではなく、「4~6月が忙しすぎる」ことがおおもとです。これでは論点のすり替えにしか見えませんでした。

 先生はさらに爆弾を投下します。
「専門外の授業を多くとらされるという不満に関しても、関心がないことをやらされる経験もどこかで役に立つはず。悪いことばかりじゃない。いいこともあるよ(原文ママ)

 こんなのあまりにも無責任だ、と思いました。

 私の個人的な意見としては、学びの深さは学びの広さでは補填されないと思っています。
 授業でその分野をずっと研究している先生の話を聞くことと、自分で本や論文を読んで勉強すること。知識を深めるにはどちらも不可欠ではないでしょうか。授業を聞いた後だと、ひとりでは難しくて読めなかった本がずっと理解しやすくなることも、多々あります。講義と自主学習、これらはいわば両輪であり、どちらかが多すぎても少なくてもいけないのだと思います。独学は確かに有用ですが、独学の怖い所は、理解が間違っていても修正してくれる存在がいないことです。

 広い知識をもつことは確かに有用ですが、広く学ぶしか選択肢がないことには違和感を覚えます。主体的な学びを促すなら、それを上から押し付けることは矛盾に他ならないですし、深い知識を学ぶことができないことの正当化に持ち出すことはおかしいと思います。
 一方で、大学全体が「広い知識」にこだわりつつある傾向が随所に見られます。うちの学部のこれもその一端なのでしょう。


 会議の雰囲気はどんどん悪くなっていました。別の先生が事態を収拾しようとし、なし崩し的に議題が次のものに移ろうとしました。
 最後に、ある先生がぽつりとつぶやきました。「私たち自身も、個人的に新カリキュラムが良いものとは思っていない」

 その時私は気が付いたのです。
 今回は学生VS教員の構図になってしまったが、本当はそうじゃない。
 先生たちもまた被害者のひとりなのだ、と。

 今回のカリキュラム改変は、文科省からの苦情(?)を受けてのものです。国立大学である以上、大学側は文科省に強く反発し、独自路線を敷けないのが現状なのかもしれません。N学長率いる本部による指令が下り、ただでさえ肩身の狭い人文系は、受け入れざるを得なかったのかもしれません。※あくまで憶測です
 
 文科省→大学→学部への上意下達。しわ寄せが来るのは末端にいる、一人一人の教員や学生です。
 文科省から怒られないために、大学の持ち味である専門性がどんどん崩落していく。
 外面をとりつくろうことによって中身がますます形骸化するいい例です。そのくせ「大学ランキング」などという外からの評価を気にして、「成果を上げよ」と言うのだからお笑い種です。
 

◎オリンピックと忖度

 そのうえ弊大学は、来年度にはオリンピックに配慮したカリキュラムが組まれるようです。オリンピック実施機関に授業やテストをしないために、日程はさらに短縮化・前倒しされ、4~6月には土曜日にも授業が行われるとか。その代わり7月末までにすべての授業が終わるそうです。
 選手やスタッフとして動員される教員・学生への配慮の賜物だそうです。その上、ボランティアスタッフの活動を促すためだそう。単位付与もされるようです。東京の大学じゃないのにね。お国に対する素敵な忠犬ぶりです。
 事実は知りませんが、「国立大学」として忖度をした結果のこれではないのかと穿ってしまいます。

 今年度のカリキュラム改変でこれだけ混乱を生んだのです。オリンピックに配慮した結果、オリンピック以外の色々なものが犠牲になったこの日程変動は、いったいどれほどの混乱を生むのでしょう。
 
 私は自身で学費と生活費を賄うために、塾講師のアルバイトをしています。奨学金は借りていますがいずれ返さなければならないものです。
 週に4回のアルバイト。そのうちの1日は、基本的に大学のない土曜日を使っていました。それが授業で行けないとなるとシンプルに大痛手です。集団授業を行ううちの塾では、仕事は基本的に曜日と時間が固定です。
 
 また、週6日授業となると先生方の負担も計り知れません。非常勤の先生も、都合をつけられず困っているという話も聞きます。
 言うのは簡単です。しわ寄せが来るのは毎回、現場にいる学生や教員です。

◎大学は何のためにあるのか

 事実、「大学に遊びに来ている」ような人も少なからずいるでしょう。その一方で、大学に「学びに来ている」学生も多くいることにも、ぜひ目を向けてほしいと私は思います。
 大学の本来の在り方とは何でしょうか。大学は教育機関であり、研究機関です。その両輪を以って「学問」を修め、発展させていくところです。
 
 諸学問は何のために必要なのか。私たちの社会を築く地盤です。先人たちの知恵が社会を少しでも快適に、豊かにしてきました。
 すぐに役に立つものは確かに有用ですが、すぐに役に立たなくなるかもしれません。一見役に立たないと思われていたものも、思わぬ形で利益をもたらしてくれるかもしれません。蒸気機関の時代、電気の研究は「すぐには役に立たない無駄なもの」であったように。
 現状で常識とされていることをありのまま受け入れるのではなく、疑い、検証し、さらなる改善策を考えた末に、「より良い社会」をもたらす。これこそ、学問の意義であると思います。

「本当にこれでいいのか?」「真実だとされていることは、本当に真実なのか?」
 そう疑う手法は様々です。科学的な立場はもちろんのこと、社会構造、人間の性質、善悪、過去、色んな視点があると思います。
 社会構造を捉えることは社会学的立場とも言えますし、人間の性質を探るのが人文学の本義です。「善悪の基準は何による?」「必要、不必要とは何か?」 そういった「基準そのもの」を洗いなおすのは哲学や倫理学でしょう。歴史学を学ぶことで、「歴史とされている」ことが本当に真実なのか問い直し、過去から学ぶための手法や素養を入手できます。文化を学ぶことで、人々の声にならない叫びを読み解くアプローチになります。
 文系と呼ばれる分野は、学問の中でもとりわけ実を結びにくい分野ではあります。しかし、私たちの認識は本当に正しいのかを見つめなおし、より良いありかたを模索するために、一役買うことができる分野でもあると思います。


 しかしながら、日本において学問や研究や教育は、全般がどんどん窮地に立たされているように感じます。
 世間において大学は「就職のための踏み台」程度に扱われているようです。ただでさえ4年生の大詰めの時期に、就活に時間を割かれる現状。就活はさらに長期化するとの見込みもあります
 「マークシートでは暗記力しか測れない」とセンター試験を廃止。大学入試改革を謳いながら、その実は民間企業との癒着。
 「同世代は働いている人が大多数」と、少数派だからと授業料免除の対象外となる大学院生。「少数派だから」という理由が理由として成り立つことは、少数派というだけで排除されうるという危険を助長しはしませんか。
 小学生の早い時期から導入されようとしている「キャリア教育」。
 即効性ばかりが重視され、「仕事(ビジネス)や実生活に役に立つ学問」以外を「無駄」と排除しようとする風潮。どんどん削られていく予算。

 労働がなければ社会は成り立ちません。それは事実です。けれど、何もかも「働くこと」だけに帰結するのは、もうやめにしませんか。人生の価値は、人間の価値は、労働だけですか。

◎おわりに

 以上、大学、ひいては文科省に振り回された一学生の嘆きでした。ここまでお読みいただきありがとうございます。あくまで私の目から見た見解であり、私にはわからない、見えていない部分も多々あることもご了承ください。
 初めに申し上げた通り、国立大学はお国から予算を頂いている以上「シンプルに予算が足りない」「国の犬にならざるを得ない」といった側面もあるように感じます。文科省サマに逆らえない以上、どんな無茶ぶりにも尻尾を振って応えているのが弊大学の現状です。

 文句しか言わない学生が悪い? つっぱねられない教員が悪い? 無茶ぶりを横流しする大学が悪い?

 いいえ、悪いのはこの上意下達的なシステムです。

 諸悪の根源は文科省です。

追記

 「諸悪の根源は文科省」と申し上げましたが、文科省も財務省の予算計画に逆らえず、財務省は政治家を忖度しており、その政治家を裏で支えているのは支持基盤である高齢者である……といった構図もあるようです。
 どんどん次の敵が出てくる少年漫画みたいな展開になってきましたね。胸アツですね。

(追記の追記)

「学びの深さは広さでは補填されない」という点について
 広さはもちろん大切だと痛感しています。しかし、私がここで「深さ」と呼んだ学問の「専門性」に当たる部分は、教養的な知識の広さとは別の性質のものであると解釈しています。
 どちらも大事なことは確かですが、方向性が異なる以上、どちらかがどちらかを肩代わりできるものではないと思います。

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ありがとうございます。
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ゆきこ

毒親から逃げてきた大学生。授業料画策中。エッセイ書いてます。https://kakuyomu.jp/works/1177354054887558822

気になったノートたち

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コメント1件

文化省や財務省が悪手を次々に踏んでいくなんて・・・
せっかく令和を迎えたにもかかわらず、平成時代と何ら変わらない、むしろ平成時代より更に悪化していますよね。
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