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このnoteにおける私について その1

ドラマーとしてプロめいた生活に入ったのは23歳あたりでしょうか。その前までは自分のバンドを率いてました。そのバンド名が恐らく誰も読めないであろう「不呪麗」=ジュリエーヌでした。ドラムはじめたばっかでね。その前まで私はベース&Voでした。(←これ、結構重要」

「呪」=ジュ、「麗」=レイですが、これを無理やり「リエ」とし、一・二点をつけた感じで最後に「不」=「ヌ」(※古文で「食えぬ」=「不食」ってな漢字で書く、あの雰囲気です)でジュリエーヌ。読めん手。それなりに札幌では定期的にライブを敢行しており、プログレハードバンドとして活動していました。

私はほぼ全曲の作詞作曲、そしてドラマーでした。

曲を作ってる、いやもう当時はさ、自分でギター弾いて説明、んでベース弾いて説明、んで歌詞とメロを歌って説明、それしかないわけで。ティアック104あたりが出てきたときは夢の時代到来と思ったもんですが、機械に弱い私はあくまでも説明で乗り切っていました。そうしますと、ドラムなんてもんは一番最後の問題でして、すなわちミュージシャンレベルに於いてどんどんメンバーから引き離されていく感触がありましたよ。

ちょうど年齢的にメンバーは大学卒業、就職などと言ったタイミングで不呪麗は解散します。最後の大入り満員は今でも覚えていますね。カセットで発売した作品を完売し、メンバーで均等に分けて解散。その後私はちょっとあがいてみたんですが、一度切れたものって戻らないんですね。

その後札幌プログレ界に頻繁に顔を出しては叩かせてもらったり、バンドにいくつか入ってLIVEやったりしてたんですよ。ちょうどそのあたりかな、札幌では圧倒的な知名度と実績があり、実際問題レベルが違いすぎてどーもならんってギタリストが偶然私の出ているプログレイベントに来ていたんですよ。その前々から知人ではありましたが、ドラマーとしての私を改めて見るのはほとんど初めてだったようです。

当時ドラマーに苦労していたそのギタリスト、K氏に私はドラマーとして誘ってもらいました。が、その前にいたドラマーがM氏と言い、現在でも超一流ミュージシャンのバックやレコーディングで日本有数のドラマーになってるってなとんでもないドラマーでした。その後釜?当時ドラム暦って俺、3年もないんだけど。

現在は世界に向かって驀進するHMバンド、Sに加入することになりました。超悲惨な1stのLIVEがその幕開けだったんです。

※当マガジンは音楽に関する投稿になりますので順序として最初は簡単に超大雑把に現在までを振り返ります。ほんの数回でさっさと終えて、「暗い音楽」への、私なりの解釈、今のところ得ている核心などに移ります。何名の方が見ておられるか、さっぱり醤油ですが、続けますね。「その2」を割とすぐに出します。よろしかったらご照覧ください。

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