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【第九夜】探し物

 真夜中に目が覚めた。

 また夢を見た。行きつけの喫茶店を飛び出し、開かないドアをただ見つめて立ち尽くす自分。叶わない想い。届かない気持ち。あの時から、俺は立ち尽くしたままなのかもしれない。


「なんかあったら、まあなんもなくてもさ、あいつの代わりに手貸すから、いつでも連絡してこいよ」

 佐知子の告別式の時、俺は美幸ちゃんにえらそうにそう言ったけど、本当は人の心配をしている場合ではなかった。

 還暦を独身で迎え、定年退職した。他に家族もいない、やることもない、自分にはただ、有り余る時間だけがあった。

 膨大な白い時間という壁が、目の前を塞いでいて、息が詰まりそう。打ち込める趣味でもあればよかった。けれど、自分にはなにもない。仕事にずっと逃げてきた代償は、あまりにも大きかった。


 葬儀から一週間がたった。

「洋二さん、家で鍋しない?」

 美幸ちゃんから突然、電話がきた。なんの予定もない俺は、二つ返事で家を出る。

 手ぶらではなんだなと途中、チーズケーキを買っていこうと思い立った。佐知子と俺は食の好みが似ていて、特にお互いチーズケーキが大好物だった。美味しいチーズケーキを見つけたら教え合い、どちらがより美味しい店を知っているか競い合った時期もあった。

 その店は佐知子の家の近くにある、地元の小さなチーズケーキ専門店。ふわふわのスフレチーズケーキをホールで買っても600円という、なんとも良心的なお店だった。店主は当時からさすがに代替わりしているようで、若い女の人が切り盛りしていた。

「チーズケーキひとつ」

「レギュラーサイズでよろしいですか?ミニサイズもありますが。」

 そういって、ミニサイズのチーズケーキを見せてくれた。うん、こちらの方が手土産にいいかもしれない。鍋の後、食べられなければ、そのまま置いていって、美幸ちゃんに食べてもらえばいい。

「じゃあミニをひとつ……あ、いやふたつ」

 見ていたら、やはり自分でも食べたくなった。なにか欲しいと感じたのは久しぶりの感覚だった。

「洋二さん、いらっしゃい」

「お、すき焼きだね」

 しょうゆと砂糖が織り成す甘辛いハーモニーは、どうしてこんなにも日本人の食欲を掻き立てるのだろう。

「うん、お母さんの味には勝てないけどね。あ、それ、マイキーのチーズケーキだよね。ありがと。後で食べよう」

 美幸ちゃんは俺が手にしていた袋を見ると、すぐに中身を理解して袋を受け取り、冷蔵庫に入れてくれた。きっと佐知子がいつも買って帰っていたんだろう。

 佐知子が結婚する前は、同期のみんなで佐知子のうちに集まってよく鍋パーティをやっていた。佐知子の作る鍋、特にすき焼きは絶品で、男性陣は大絶賛、もちろん俺は胃袋を鷲掴みにされていた。

「洋二さん、ビールの余り飲んでね」

 そういいながら、缶ビールに半分くらい残っていたビールを俺のコップにつぎ、美幸ちゃんも食卓についた。

「いただきます」

 手を合わせてまずはビールを一口飲む。佐知子はすき焼きを作るとき必ずビールをいれていた。肉が柔らかくなるんだとか。けれど必ずビールが余るのでそれを俺が飲んでいた。美幸ちゃんも佐知子の作り方を、受け継いでいるらしい。

 卵を割り、軽くといたところに、甘辛い味をまとったお肉を絡ませて口に運ぶ。

「うまい」

「ほんと?よかった。」

 美幸ちゃんが嬉しそうに言った。

 大した会話をするわけじゃない。ただおいしいごはんを一緒に食べる。それがとても幸せで満ち足りた時間なのだと、お腹が満たされる以上に、心が満たされるのだと、この年になって初めて実感した。

 不覚にも込み上げてきた涙を、俺は美幸ちゃんに気づかれないように大げさに何度もあくびをしてごまかした。

 結局、締めにうどんまで食べてお腹がいっぱいになり、チーズケーキは各自食べることにして、俺はチーズケーキをひとつ手土産に自分の家に帰った。

 帰宅すると少しお腹に余裕ができ、俺はすぐにチーズケーキを食べた。

「うまい」

 スフレチーズケーキはふわふわで口に含むと泡のように溶けてなくなった。甘さ控えめでいくらでも食べられる。ミニサイズのチーズケーキはあっという間に胃袋の中に収められた。思わず口角があがる。にんまりという表現が正しいか。顔の筋肉が自然と緩んだ。

 うまいものは人を笑顔にする。萎んでいた心に空気を吹き込まれたようだった。やりたいことを見つけ、年甲斐なくワクワクした。

『うまいチーズケーキ探し』

 還暦を越えた親父の趣味にしては、乙女過ぎるか。まあいい、時間だけはたっぷりある。

 ふと気付くと目の前を塞いでいた、膨大な白い時間の壁は消えていた。俺は埃をかぶっていたノートパソコンを立ち上げ、インターネットの検索サイトを開いて、「チーズケーキ うまい」と入力していた。

【第十夜】原動力>

#小説 #独身 #還暦 #趣味 #チーズケーキ #すき焼き

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