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【第七夜】澱

 真夜中に目が覚めた。

 家の中に漂う空気は明らかに昨日までのそれとは違っていた。昨日まであった美優の気配が、今はもうない。あの子の存在が私を支えてきたことを改めて実感する。


 後にも先にも一度だけ……忠幸さんの葬儀の時、これが最初で最後だと言って、奥さんから私に連絡がきた。

 正直、悲しいという感情は湧かなかった。余命半年と聞かされた時、彼の最期を受け止めるだけの情は私にはなかった。そして彼自身、自ら彼女のところに戻ることを選んだ。

「美幸を俺にくれないか」

 私はそれを受け入れた。小さな頃からの夢をこんなに簡単に手放すことになるとは思っていなかったけれど、不思議と気持ちは落ちついていた。何かが終わったのだという少しの喪失感と、これからようやく始まるのだという期待感でない交ぜになる。

 迷ったけど、仕事を休んでまで告別式に行く気にはなれず、仕事が終わってから通夜にいくことにした。少し残業になったが、更衣室で喪服に着替え、斎場に向かった。

 焼香の列はもう終わりかけていた。美優は延長保育を頼んでいた。ここにきたのは、多分自分にけじめをつけるためだった。

 焼香台の前で遺影に手を合わせる。半年前まで家族だった人なのに、今はなんだか知らない人のように思えた。いや、きっと最初から、私と彼は家族にはなれていなかったのだろう。

 焼香台を離れる刹那、遺族席に目をやる。小さな子供を膝に座らせ、まっすぐにこちらを見ていた女性と目が合う。私は思わず、外に逃げてしまった。

 子供の顔はまともに見られなかった。視界の端に入った小さなシルエットが脳裏に焼きついた。思っていたより、現実は重かった。

「ユカリさん?」

 斎場の入口で後ろから声をかけられた。

「はい。……連絡、ありがとうございました」

 そう言って、私は軽く頭を下げた。

「あなたに、直接お礼を伝えたくて。美幸を手離してくれて、ありがとう」

 彼女はそう言って、深く頭を下げた。

「安心して。あなたに連絡をとることは金輪際ないし、あなたのことを美幸に教える気もありません。そんな必要ないくらい、私があの子を大切に育てます」

「わかりました」

 彼女はスッキリした顔をして、

「それじゃ、さよなら」

 と言って、戻っていった。


 当時、彼女の強さに私は打ちひしがれた。美幸はきっと幸せにしてもらえるだろう。私はちゃんと美優を幸せにできるだろうか。いや、幸せにしなくては。……そう思って、美優を育ててきた。下手くそなりに、愛情を注いできたつもりだ。

 だから、あの子の結婚式前夜、私はそれを確かめたくなった。私がちゃんとあの子の母親になれていたかどうか。きっと美優にしたら、知らなくてもよかったことだろう。でも、知って欲しくなってしまった。私は結局、自分がかわいい。それでも、

「私もお母さんのこと大好きだよ」

 控室で花嫁姿の美優からその言葉を聞けて、私の人生は間違っていなかったと初めて思えた。ずっと胸の奥に溜まっていた澱のようなものが、涙とともに流れ出た気がした。

【第八夜】ひとり>

#小説 #母親 #家族 #娘 #花嫁 #結婚式

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