【第五夜】満ちる
真夜中に目が覚めた。
忠幸と離婚してから……毎晩のように暗闇で目が覚める。寝つきも悪いし、夢見も悪い。とにかく朝までぐっすり眠れたためしがない。
もう一年は経つと言うのに、私はまだ、心も体も立ち止まったままだ。
何か新しいことでも始めて気分転換でもしてみようかと、スクール雑誌に目を通してみても、活字は目の前を素通りしていくばかり。
結局、雑誌を閉じ、目を閉じて……考えても仕方のないことを考えてしまう。
もっとすがりつけばよかった。不妊治療でもなんでも頑張って、頑張って……。浮気なんか許さなきゃよかった。別れさせて、堕胎させて……無理やりにでも忠幸を奪い返せばよかった……。
そう思った次の瞬間、やはりかぶりをふる。そんなことをしても、忠幸から笑顔を奪うだけだ。二人とも幸せになんかなれない。
私はただ忠幸が隣にいればそれだけでよかった……けれど、彼にとってはそうじゃなかった。
子供を産めない女に価値はないの?
あの日からずっと……自問自答している。
「ママ!急がないと遅刻するよ~」
「うわ~ヤバい!美幸は、忘れ物ない?」
「あたしは大丈夫。それよりママ、鏡見て?左目、お化粧忘れてる」
「やだ、もっと早くいってよ」
「じゃあ、あたし先いくね」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「はーい、いってきまーす!」
毎朝繰り広げられる慌ただしい親子の会話。ありふれた光景……といっても私と彼女の間に、血のつながりはない。
忠幸と別れて一年後……彼は小さな美幸を抱えて私のところにやってきた。それまでの自分の一年を思うと、胸の奥から込みあげてきた感情を抑え切れず、私は自分勝手な彼を責めた。
声が枯れるまで、泣き喚く。これまで思っていたこと、あの時ぶつけられなかった気持ちを全部、忠幸にぶつけた。彼はそれを黙って聞いていた。そして全部聞いた後、自分が余命半年であることを私に告げた。
ズルい男だ。けれど、彼が最期の場所として自分を選んでくれたこと、私に自分の分身を託したいと思ってくれたこと、それが悔しいけど嬉しくてまた泣いた。忠幸も泣いていた。大の大人が二人して泣いて、その横でつられて美幸も泣いていた。三人で泣きながら、心の中の暗闇が晴れていくのがわかった。
諦めた所から、その関係は終わっていく。我慢した先には、暗闇しかない。だから今度はもう、諦めない。本当に欲しいものは、自分から決して手を離さない。この二つの命を、しっかりと受け止めよう。
内側から力が漲るのを感じた。渇いていたはずの心の奥底から、なにか暖かいものが湧き出してくる。
掛け値なしに誰かを愛せる……そのことが、それだけで幸せだということに、ようやく気づけたのかもしれない。
朝、心地よく目が覚めた。夢に忠幸が出てきた。子供のようにオムライスをねだる彼に、私はしょうがないなあといいながら、オムライスを作る。
忠幸はうまい、うまいと言いながら、あっという間にオムライスを平らげた。「ごちそうさま」という彼の声を聞きながら、幸せな心地で目が覚める。
暖かいふとんの中、その余韻に浸りながらまどろむ。五分後にアラームが鳴り、私はそれを止めてふとんから起き上がった。
お湯を沸かし、一人紅茶を入れる。美幸は昨日から修学旅行にいっていて、今朝はいない。久しぶりに独りの夜を過ごした。
今はもう、真夜中に目が覚めることはない。
自分の血を分けた子でなくとも、この世にたった一人でも全身全霊をかけて守りたいと思える存在がある……それは何物にも代えがたい充足感だった。
忠幸は二度も私の前から姿を消したけど、最高の贈り物を私に残してくれた。
紅茶の暖かさが喉を伝って降りていき、体が内側からじんわり暖められていく。その感覚は美幸を想うときに湧き上がってくる愛しさとどこか似ていた。
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