廊下のない街
(全文、無料で読めます。投げ銭歓迎。)
本を読むのに一番快適な環境はどこだろう。
わたしは電車の中だと思う。
適度な振動、落ち着いたざわめき。
眠くもならず、逃げ出すこともかなわず、活字に没頭できる。
ホリデーパスのチケットを購入すれば、関東近郊の鉄道を一日中乗り放題だ。鈍行を乗り継ぎ、どんどん活字にのめり込んでいるうちに外が暗くなっていることに気づいた。
時計をみると午後九時。朝の八時からよく読み続けたものである。次の駅で下車して一泊することにした。
駅員に尋ねる。
「どこかに安い宿はないかなあ」
「宿ねえ。あいてる部屋なら、ないこともないけど」
「紹介してよ」
「改札を出て、後藤さんに聞いてみな」
「後藤さん?」
言われるままに改札を出て。
出て、というか。
出たの、これ?
駅舎と人家がつながっていて、改札の向こうにある襖を開けると、ちゃぶ台に向かって後藤さんが晩飯を食べていた。
わたしは申し訳なく思い、あわてて靴を脱ぐと正座した。
「あなたが後藤さんですか」
「そうだけんど」
後藤さんは口をもぐもぐさせながら答えた。
「旅の者ですが、宿を探しておりまして。駅員に後藤さんに相談しろと言われました」
「ああ、泊まりたいのかね」
「はい」
「じゃあ、その左の襖をあけて、まっすぐ行くといい。明智さん、犬塚さん、山本さん、蜂須賀さんの向こうが空き部屋だ」
「宿ではないので」
「宿なんてないだよ」
襖を開けると、明智さんの部屋。
また襖を開けると、犬塚さんの部屋。
どれだけ広い家なんだと思いながら、わたしは明智さん、犬塚さん、山本さん、蜂須賀さんに「泊まる部屋を探しているんです。夜分遅く申し訳ありませんが通してください」とお願いし、ようやく斉藤さんの部屋にたどり着いた。斉藤さんは三日前に亡くなったと聞いていたが、その部屋には少年が座って本を読んでいた。
少年が振り返った。
「ええと」
わたしは口ごもった。
「今日、ここに泊まりたいんだけど」
「いいよ」と少年は言った。「ここ、ぼくの部屋になるんだ。まだすこし先の話なんだけど」
「君、名前は?」
「斉藤」
「ここ、斉藤さんの部屋だと聞いたよ」
「ぼくのおじいちゃん。死んじゃったから、ぼくが住むことになったんだ」
「ふーん」
「汚さないでね」
わたしは汚さないことを誓い、蒲団を敷いて眠った。
この不思議な土地に興味がないことはなかったが、深入りすると二度と自分の日常に戻れないような気がして、早々に駅に戻った。
「部屋を教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「この駅の名前、教えくれるかな」
「たいら」
「また、来るかもしれない」
「じゃあ、部屋が空いたら教えてあげるよ。連絡先は?」
わたしは住所と電話番号をメモして駅員に渡し、東京に戻ってきた。
幻から抜け出してきたような感覚がまだ消えない。
(了)
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