ボルダリング風呂

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 目黒考次郎は五日間にわたる猫探しの死闘を終えると、服を着替え、建築湯に向かった。
 番台に主人の姿を認めて驚く。毎日のように通っても、この主人には年に一度会えればいいほうだと言われている。銭湯の増築に打ち込んでいるため、番台はほったらかしなのだ。かといってアルバイトを雇うこともなく、番台には入場料と書かれた箱が置いてあるだけ。
「道ばたで野菜を買ってるんじゃないんだから」
 と言いながら、常連たちは嬉しそうに金を落としていく。
 主人は目黒の尋常ではない迫力に眼を丸くしたが、すぐに気を取り直して、「ちょうどいいや」と言った。「目黒さん、一番湯はどう?」
「一番湯?」
「三階、今日オープンなんだよ」
「あ、それで番台に」
「そうそう。よかったらあとで番台に座ってよ。バイト代払うからさ」
「それはありがたいけど、とりあえず一浴び」
「そうだね。じゃあ、表に回って壁を登って」
「はい?」
「せっかく高いところに作るんだからボルダリング風呂にしたんだ」
 目黒が表に回ると右側の壁が人工的な岩壁になっていた。人工樹脂で作られたでこぼこに手足をかけて登っていく。
「落ちるとどーなるのかなー」
 と呟きつつ、動物じみた体のこなしでなんなくクリア。
 扉の位置は聞くまでもなかった。湯煙が吹き出している。
 三階にたどり着き、服を籠にしまうと、きょろきょろとあたりを見回す。湯殿への扉が見あたらない。素っ裸で壁を見上げ、「ウソだろ」と呟いた。
 まだ登れというのだろうか。
「いててて」
 急所を人工岩でこすって情けない声を出す。
 肩幅くらいしかない穴から湯煙が吹き出している。頭から突っ込んでいく以外に手はない。
「どわー」
 急流だった。湯に流され、泡にまみれ、恐ろしい回転に気を失いそうになりながらつるつる滑っていくと、地下の教会風呂に飛び出した。水風呂にどぼんと突っ込み、しばらくしてぷかーと浮かび上がると、主人がにやにやしながら待っていた。
「どうでした?」
「ふつう死にませんか、これ」
「目黒さん、死んでないでしょ」
 番台に座った目黒は、退屈そうな顔つきで、入浴料を受け取っていた。どの顔をみても、三階を勧めると一生恨まれそうだ。
 そんなときにあらわれたのが、目黒に煮え湯を飲ませるのが大好きな、もとい、難事件ばかり持ち込んでくる小石川警部補である。
「お、目黒じゃないか。いよいよ食い詰めたか」
「ただのバイトですよ。それより警部、いい日に来ましたね。今日、三階の新しい風呂がオープンですよ」
「お、ほんとか」
「ちょっと変わってますけどね。警部にぴったり。体力がいるんですよ」
「まかしとけ」
「じゃ、いったん外に回って右側の壁から入ってください」
 警部が姿を消してから、封印していたニタニタ笑いを全開にし、目黒は笑いながら逃げ出した。
(了)

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