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六畳一間の海

「いまは夏なんだよ夏夫くん」
 と、幸子が言った。
「海へいこうよ」
 コールセンターに勤めて三年になるが、夏夫の給料はまったく上がる気配がない。売るものは健康食品、ゴールド、リゾートマンションとなんでもありだが、仕事場はいつも同じ。夏夫は毎朝、狭苦しいブースに身を押し込み、ヘッドセットを装備してひたすらリスト通りに電話をかけ続ける。ブースとワンルームマンションの往復が生活のすべてだ。
 そりゃ、海へ行けば気も晴れるだろうが、金がなぁ、と夏夫はため息をつく。
「ひとり三千円の日帰り海岸ツアーっていうのがあるんだよ」
「ほんと?」
 それくらいなら平気だ。
「どこへ行くの」
「バスで湘南海岸。チューブベッド、パラソル、飲み物付き。いまは湘南海岸じゃなくてメビウス海岸っていうらしいけどね」
「安すぎないか、それ」
 自分が詐欺すれすれの電話営業ばかりしているものだから、夏夫はなにに対しても懐疑的だ。
「遠出できるだけでも気が晴れるよ」
 と笑う幸子のノーテンキさにいつも救われている。
 ツアーにはとくに怪しいところはなかった。
 ただ、更衣室を出ると、いきなりビーチに出たのにはびっくりした。しかも、海は目と鼻の先だ。芋の子を洗うような風景だろうと予想していたのに、プライベートビーチのノリだ。
 ビキニ姿の幸子に日焼けオイルを塗り込みながら、夏夫は感嘆の口ぶりで言った。
「すごいなあ幸子。よくこんなツアーを探してくるなあ」
「へへへ」
 と幸子は笑った。
 ふたりで冷たいブルーハワイを飲んだ。
「せっかくだから海に入ろうか」
「えっ、夏夫くん、金槌じゃなかった?」
「そうなんだけど、入るくらいいいさ」
「ごめん。それ、無理なんだ」
「どういうこと?」
「海さ、すぐそこに見えるけど、ものすごく遠いんだよ」
「ほんの五、六歩だよ」
 夏夫は、海に向かって歩いた。つま先に波がふれそうになったところで、ふっと景色がかわり、幸子の背中が見えた。
「メビウスの輪って知ってるでしょ」
「ひとひねりしてくっつけた輪のことだろ。裏表がないっていう」
「メビウスの輪、半分に切ったらどうなると思う?」
「輪が二つになるんじゃないの?」
「違うの、幅が半分で長さが二倍の輪になるの」
「じゃあここは?」
「いくつにも分割したメビウス状の湘南海岸。足下まで波が来ているみたいに見えるけど、ホントは何キロも先」
「細ギレの海岸だったのかあ」
「六畳一間の海」
 と幸子は泣き笑いの表情で言った。

(了)

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