見えない

 新しい種類の認知症らしいとわかったのは、だいぶ症状が進んでからだった。
 大不況と重なったのがまずかった。
 近くのスーパーで日に日に棚から商品が少なくなっていくのは自分でもわかっていたのだが、不況のせいだと思い込んでいたのである。
「商品も少なくなってきたねえ」
 というと、妻は、
「そうねえ」
 と、答えた。
 すでにそのとき、お互い、まったく違うことを考えていたはずである。
 妻は洋服や化粧品のことを。これらは実際、不況のせいで商品の種類が減って、プライベートブランドや定番品ばかりになっていた。
 私が言っていたのは、商品ジャンルそのものだった。昨日はサバの缶詰が消えた、今日は煮込みラーメンが消えた、といったふうに。
 買い物を頼まれ、
「タマネギもバナナもイクラもないよ」
 と電話したとき、ようやく家族は異変に気づいたらしく、私を病院につれていった。ピンクの制服を着た看護婦に無人の診察室に案内され、私はじっと待っていた。
 五分ほど待っているうちに、看護婦が血相を変えて飛んできた。
「田川さん、なぜ黙っているんです?」
「は?」
 私は先生の姿も声も認知することができなくなっていたのだった。看護婦が間に入って診察を受けたが、こんな症例は初めてだと言われた。やがて看護婦の姿も消えたので、診察を受ける意味がなくなった。
 家の中の風景も、自分の部屋も一変した。
 テレビがなくなった時はずいぶんさびしかった。
 自室ががらんどうのように感じたのは本がすべて消えたときだ。パソコンがなくなり、とうとう仕事もできなくなった。
 私はヒマを持てあました。
 もう自分に見えるものはネコくらいしか残っていない。
 みゃーみゃー鳴くので、妻に声をかけた。
「おーい。ネコのエサがないんじゃないか」
 無視された。
 やっかい者だからかな、と思ったが、私のことがほんとに見えないらしかった。
 見られることもできなくなってしまったのか。
 メモを残そうと思ったが、紙もペンも見えないのではどうしようもない。
 外へ出た。街中のはずだが、そこは、ただののっぺらぼうな土地のひろがりでしかなかった。
 
(了)

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